大きな汽笛を3回鳴らした後、船はゆっくり動き出した。
1948年(昭和23年)8月29日、午後2時過ぎ。
ソビエト側が用意した貨物船「レニングラード号」は、国後島からの引き揚げ者を乗せ、島の南西・泊村のキナシリ沖を出発した。総勢何人なのかは分からない。が、そのうちの約250人は、島の東側を占める留夜別村の最後の引き揚げ者だった。続きを読む →
大きな汽笛を3回鳴らした後、船はゆっくり動き出した。
1948年(昭和23年)8月29日、午後2時過ぎ。
ソビエト側が用意した貨物船「レニングラード号」は、国後島からの引き揚げ者を乗せ、島の南西・泊村のキナシリ沖を出発した。総勢何人なのかは分からない。が、そのうちの約250人は、島の東側を占める留夜別村の最後の引き揚げ者だった。続きを読む →
最近気づいたことがありました。
「Tiatiaの子」では、国後島の生活に欠かせない食料としてジャガイモを挙げています。そしてそこでは「芋餅」を作って食べていた、と記しています。
第1章「礼文磯」の6「花咲蟹の夜」に、このように書きました。
島の主食は何といってもジャガイモだ。
……(中略)……
そのまま煮て塩味で食べたり、煮物に入れたりするのが基本だ。特に昆布漁で忙しい夏の昼飯は、ほとんどが煮て塩をかけただけのものだった。
昆布漁がない時期で、少し時間に余裕ができると、はなはよく「芋餅」を作ってくれた。
芋餅はジャガイモの中でも「赤芋」と呼ばれる種類でつくる。ゆでて、つぶして、冷やすとコロコロと固まって餅のようになる。それをちぎって皿に取り、砂糖醤油を付けて食べる。冬のお昼などに結構出てきた。
この「赤芋」についてです。続きを読む →
昨年10月25日。父・眞下清が入院した翌日、私は始発の東北新幹線に乗って岩手に向かいました。
8月のお盆に帰省した時はまずまず元気だったのに、父はその後の2カ月で急に衰えました。歩くのが不自由になって転びやすくなり、座っていても体勢を支えることが難しくなりました。
入院直前には、朝、誤ってベッドから落ちてしまっても「痛い」とも訴えず、怒りもせず、床に寝そべったまま母に「かっちゃん、起こしてけろ」と子どものようにニコニコ笑いながら言うようになっていたそうです。
父の病は脳腫瘍、それも進みのとても速い悪性度の極めて高いものでした。続きを読む →
「Tiatiaの子」の主人公・真木潔のモデルであり、筆者の父の眞下清(まっか・きよし)が11月24日午前8時44分、入院先の病院で亡くなりました。84歳でした。
悪性度の高いがんと診断され、10月24日に入院してからちょうど1カ月。83歳の妻と、私を含む3人の子、そして2人の孫に見守られながら、静かに息を引き取りました。続きを読む →
2019年8月3日午前7時過ぎ、父・清の生家のあった国後島旧留夜別村礼文磯の浜に上陸しました。
千島歯舞諸島居住者連盟による自由訪問団の一員としてです。私の礼文磯上陸は、2003年(平成15年)8月27日、引き揚げ後初上陸の父・清と訪れて以来16年ぶり2度目。今回は親族のいない一人だけの国後訪問になりました。続きを読む →
函館引揚援護局史(函館引揚援護局史係編、1950年2月発行)の冒頭には、十ページほどにわたって関係の写真が掲載されています。
上の写真もその中の一コマ。「国旗は埠頭に翻る−感激の上陸−」というキャプションだけで、それ以上の詳しいことは書かれていません。私は以前からこの写真は見てはいたのですが、特になんとも思わずスルーしていました。
ところが本日(2019年6月30日)、函館訪問の記事に函館引揚援護局史の写真を引用する作業をしていて、ハッとしたのです。続きを読む →
上の船が1948年9月、国後からの最後の引き揚げ者らを樺太・真岡から函館に運び、Tiatiaの子にも登場した「高倉山丸」です。
この高倉山丸について詳しく調べたのでまとめておきます。
函館引揚援護局史によると、高倉山丸は1947年(昭和22年)4月から12月の「第3次引き揚げ」と、1948年(昭和23年)5月から12月の「第4次引き揚げ」で計16回、引き揚げ者の輸送に使われました。ですから、私の親族以外の引き揚げ者の思い出話にも何度か名前が出てきます。
ところが、話に出てくる時に一致しているのが「小さくて古い船だった」ということでした。少ない人で総トン数400トンからせいぜい700トンぐらいまでが相場です。父もやはり同じような印象を語っていました。続きを読む →
■1 千代ケ岱援護寮
函館訪問記、前回は引き揚げ者が上陸した西埠頭と検疫所をご紹介しました。
今回はまず、私の祖父母や父などの一家が収容された千代ケ岱(たい)援護寮です。
祖父母など引き揚げ者約1500人を乗せた引揚船「高倉山丸」が函館港に入港したのが1948年(昭和23年)9月17日。みんなは手続きなどで3日間船内に留め置かれ、20日に前回紹介した「西埠頭」にある上陸所で歓迎を受けて上陸、トラックで全員「千代ケ岱援護寮」に収容されたようです(佐々木隼男さん「敗戦・進駐・引揚」による)。
その千代ケ台援護寮は、上陸した西埠頭の上陸所から北東に約5キロほど離れた、函館山よりは五稜郭に近い所にありました。今は「千代台公園」となっています。続きを読む →
久々に投稿します。
今年、2019年5月31日から6月2日まで、2泊3日で北海道・函館市を訪れました。
国後などからの引き揚げ者が、樺太・真岡を経由して日本に来た時、上陸した地が函館です。ですがこれまで訪れたことがなく、「Tiatiaの子」も函館に関しては資料と父や伯母の証言だけに頼って書いたものでした。
今回やっと行くことができたので、ここにまとめて記録したいと思います。
潔は結婚後、戸田の家を出て、宇堂口の繁子の実家で暮らし始めた。
1年後の1959年(昭和34年)10月、長女が誕生した。
「真木さん、うちの横に土地を買って家を建てないかね」
義父の末吉から、潔はよく言われた。
それは「盛岡に来ないか」という話が潔に持ち上がっていたからだった。
青年団活動と並行して、潔は労働組合運動に熱心に取り組むようになっていた。続きを読む →
1958年(昭和33年)8月。
23歳を目前にした潔は、家から5キロほど離れたところにある商店の奥の座敷にいた。
前には2人の女性、潔の1歳年下の繁子とその母・イトが座っている。
「当日は、合同結婚式でやりたいと思います。伊保内の本田旅館と話をしています」続きを読む →
ドンドンドン
時計はもう午前零時を回っていたのかもしれない。
1950年(昭和25年)12月19日深夜。ハレと良雄が盛岡赤十字病院の死体室で眠れぬ夜を過ごしていた時、戸田村長倉の潔たちの住む小屋の戸を誰かが叩いた。続きを読む →
1950年(昭和25年)秋。大きな病院に入院しても、はなの病状が良くなることはなかった。
医者の説明では、はなは「心臓弁膜症」だった。心臓の機能が落ちることで血液の循環が悪くなり、息切れ、むくみ、腹水などが起きる。血液の通りを良くする薬などを処方するが、薬では治すことはできない。当時はまだ手術などはできなかった。続きを読む →
1950年(昭和25年)7月、はなとハレが盛岡に行ってしまったため、戸田村の長倉には19歳の克義と中学3年の潔、小学4年生のハマ子、2年生の澄子、6歳の陽子、4歳の秀子の6人が残された。続きを読む →
1950年(昭和25年)6月。吉五郎の死がよほど堪えたのだろう、はなは寝込んで起きられなくなった。
医者に往診してもらうと、身体がむくんでお腹に水が溜まっているようだという。村役場に相談し、すぐ戸田の診療所に入院することになった。生活保護を受けているため、入院など治療費はかからない。
はなは自分で起きて歩けないため、克義や潔で戸田までリヤカーに乗せて山から下ろした。
はながいなくなって、長倉の小屋は、火が消えたようになった。続きを読む →
1950年(昭和25年)が明けた。
正月早々、伸義は北海道に出稼ぎに行った。
国後・礼文磯で近所に住んでいた人が、釧路で船を持って漁師をしていた。そこから働かないかと声がかかったのだった。一旦北海道に渡ると年末までは帰ることができない。
「もうトッチャはだめだろう。何かあってもオレは帰れないからな」
伸義はハレにそう言って長倉を出た。続きを読む →
1949年(昭和24年)も夏になったころ、ハレは、住み込みの仕事先から久しぶりに帰って来た兄たちが何やらヒソヒソ話しているのを聞いた。
「本当か、嘘じゃないか」
「いや、本当だ」
「トッチャはあんな状態だ。10人目だなんて」
カッカが妊娠している、とその時ハレは初めて知った。続きを読む →
1949年(昭和24年)春、一家は晴間沢の金松方の作業小屋から、潔が一時世話になった長倉の文治郎宅に引っ越すことになった。
当時の東北では、春になると多くの農家で養蚕が始まる。
養蚕は場所をとる。このためどの養蚕農家でも、春は家や小屋のあらゆる場所を蚕のために空けるのだった。米作りが主ではない戸田の農家にとって、養蚕は1年で最も重要な仕事であり収入源だった。
そういうことで、引き揚げ当初から金松は吉五郎に、春にはどこかに引っ越してもらうことになる、と話をしていた。続きを読む →
「おい、吉五郎が血さ吐いで倒れたんだとよ」
1948年(昭和23年)11月末のある晩、潔は文治郎から吉五郎が吐血したと知らされた。
野外での作業を手伝っている時、突然血を吐いてそのまま倒れたのだという。一緒に作業をしていた人が長倉に寄って、その様子を教えてくれたのだった。
夜の9時ぐらいだったか、潔は真っ暗な山道を駆け下りていった。続きを読む →
1948年(昭和23年)9月26日。
岩手県戸田村に引き揚げてきた翌朝、目を覚ました澄子たちはびっくりした。
赤、黄、白、ピンク、藤色、紫…
外に出てみると、家の周りや隣の畑が、色とりどりの満開の花で溢れているのだった。続きを読む →
潔は後で知ったが、国後から引き揚げ直後、つまり1948年(昭和23年)9月の吉五郎一家には大問題が持ち上がっていた。
函館に着いたはいいが、さて、ここからどちらに向かうのか。北海道・根室か、岩手県・戸田村(現在の九戸村)か——というものだ。続きを読む →
国後・留夜別村からの最後の引き揚げ者などを乗せたソ連の貨物船・レニングラード号は、1948年(昭和23年)8月29日午後2時過ぎに国後沖を発ち、国後島と択捉島の間の国後水道を北上、樺太・真岡に向かった。
国後島の南岸沿いに進んでいるときには穏やかだった波が、国後水道に入ると突然荒くなった。続きを読む →
1948年(昭和23年)8月28日、小学校や寺、個人宅に分かれていた人たちが全員、船着場に集められた。
とは言っても総勢で250人程度だ。
午後4時ごろからソ連の貨物船への乗船が始まった。曇っているが雨は降っていない。
礼文磯より東にある白糠泊班から乗船が始まった。次に乗り込む順番の礼文磯班もみんな集まり並んで待っている。続きを読む →
1948年(昭和28年)8月20日すぎ。
日本とソ連との調整も整ったようで、月末には引き揚げの船が来ることが伝えられた。
7月末に集められてから3週間。少々弛緩した空気が漂っていた国後島・留夜別村の乳呑路は、再び高揚感と緊張感に包まれた。
大人たちの関心は、引き揚げ時の手荷物に集中していた。続きを読む →
1948年(昭和23年)8月、引揚命令直後の騒ぎも落ち着き、乳呑路・孝徳寺での生活にも慣れてくると、子どもたちはだんだんと暇を持て余すようになった。
潔、喜充、正策、そして尚武の4人は、しばらくは寺の境内や乳呑路国民学校の校庭で三角ベースをしたりかくれんぼをしたりしていたが、それにも飽きてきた。
「何か面白いことないかな」
ある日、誰からともなく言い始め、オネベツ川に行こうということになった。続きを読む →
1948年(昭和23年)7月30日。
朝、上の兄3人はいつものようにノツカの製材工場に出勤した。曇ってはいたが暑い日で、気温は午前中に20度を超えた。
ハレは食器洗いや洗濯など、朝の仕事をしていた。
しばらくすると、表の方から工場に行ったはずの伸義や克義の声がする。
表に出ると、3人とも工場から帰ってきて馬を繋いでいた。
「どうしたの」
「今日は工場は休みだと。ソ連の何かの祭日なんだとさ」
「何だ。教えてくれればいいのに」
そう言うハレに良雄は笑って頷きながら、足早に家の中に入っていった。
ハレが仕事をしていると、克義が呼びに来た。居間に戻るとみんな揃っている。
「今日、もうすぐ引揚命令が来る」
小声で良雄が言った。続きを読む →
礼文磯にソ連の民間人が入ってきたのは、1947年(昭和22年)になってからだった。
礼文磯の西の外れ、墓地に通じる道の辺りに、戦後すぐ北海道に逃げた家が数軒あった。その空き家に、いくつかの家族が住みついた。その後次第に増えてきて、乳呑路までの間の空き家約10軒ほどに住むようになっていた。
そのロシア人たちが何をしている人なのか、潔たちには分からなかった。
国後の他の地区や、他の島では、日本人とロシア人が同じ学校で学んだようなこともあったが、礼文磯では終戦直後から学校はないも同然になっており、ジャガイモなどを求めてやってくる時以外は、ほとんど接点がなかったからだ。
潔は仲間たちと学校に遊びに行くことも多かったが、ハレは終戦以降、学校には一度も行かなかった。続きを読む →
1946年(昭和21年)、舟が焼かれた礼文磯では海に出ることができなくなったため、魚は川で釣るか、磯で取るしかなくなった。
秋、サケやマスを獲る季節の前に、潔たち3人組はしっかりとした竿を作ることにした。
「おいヨッコ、爺さんの家に道具が何でもあるだろ。そこで作ろうぜ」
潔は喜充に言った。
「おう、そうだ」
喜充も思い出した。続きを読む →
1946年(昭和21年)5月、畑仕事が始まった。
昆布漁がなくなり、ソ連の命令で舟も焼かれた今、家族の主な仕事は農作業になった。
裏の野菜畑、1段上がった所のジャガイモ畑を耕し、昨年と同様のものを植え、種をまいた。
一冬越してみて、ジャガイモの収量を増やすことが大事だということが分かった。
米を節約するため、これまでのように主食としてのジャガイモが大事だというだけではない。
ロシア人が物々交換で欲しがるのは、圧倒的にジャガイモが多かったからだ。続きを読む →
真木一家が住む新田家の裏は、10メートルほどの崖になっていた。冬になるとそこに雪が積もり、1月が終わるころにはそれがカチカチに凍って天然のスロープになった。
1946年(昭和21年)2月中旬のある日、ハレはハマ子や澄子と、その坂でそり遊びをしていた。
はなは臨月を迎えていた。続きを読む →
近くに住んではいなかったが、礼文磯にはその後も、ソ連の軍人が食べ物が欲しいといってやって来ることがあった。
礼文磯にくるロシア人たちは悪いことはしなかった。5人、10人など集団で来るようになり、そのうち住民たちも怖がらなくなった。
彼らが欲しがったのは食料が多かったが、「女房に贈るんだ」と女性用の着物を欲しがる者もいた。続きを読む →
真木吉五郎の一家は、1945年(昭和20年)の冬を礼文磯で越すことを覚悟しなければならなくなった。
しかしこの年は、例年にも増して冬への備えが貧弱だった。
いつもなら、夏の間必死で採った昆布を売り、その代金で米や味噌、衣類、石油などを買い、さらに燃料となる薪を1年かけて準備し、魚を干したり塩漬けにしたり、野菜を保存したりして冬を迎えた。
しかし8月の敗戦以降、この年の冬を礼文磯で過ごすことなどあまり考えていなかったため、冬に備える作業を十分には行えていなかった。
ソ連の占領により北海道との自由な交通はとうに途絶えており、必要なものを買うこともできない。小屋の土間には8月14日までに作業した昆布が積んであったが、今や何の役にも立たなかった。続きを読む →
礼文磯では、1945年(昭和20年)8月15日の終戦を、ほとんどの家がそこで迎えたが、占領前に北海道に脱出した家もあった。
例えば2軒隣の矢野家だ。
矢野家では北海道側の泊村に親戚がいたため、礼文磯の家を捨ててみんなで泊村に向かった。それも家族バラバラになってだ。泊からそれぞれ小さな船に乗せてもらって北海道に渡った。最終的に釧路で家族全員落ち合うことができたが、それは終戦後しばらくしてからだったという。
でもそのように行動できたのはごくわずかだ。少ないとはいえ家や浜もあれば船もある。そう簡単に礼文磯を捨てて北海道に渡ることはできなかった。
それでもソ連軍が入ってくると、根室に逃げる家が次々と出てきた。続きを読む →
東京の空には灰色の雲が垂れ込めていた。風はなく、海は静かだった。
1945年9月2日、朝9時。東京湾の米艦ミズーリ上で、降伏文書の調印式が行われた。
降伏文書に外相ら日本側が調印したのは9時4分。連合国側はマッカーサー連合国軍最高司令官から始まり、最後にニュージーランド代表が署名したのが同15分ごろだった。
すべてが終わるとミズーリ上空をアメリカのB29戦略爆撃機が9機編隊で通り、さらに数百機の連合国軍の大編隊が空を覆った。
こうして太平洋戦争は正式に終わりを告げた。
礼文磯を含む国後島に外国の軍隊が初めて上陸したのは、その前の日の9月1日朝だった。
礼文磯では誰かが、沖にいた見慣れぬ1隻の船を見つけた。続きを読む →
1945年(昭和20年)8月15日。
国後も晴れていた。暑くはなく爽やかな天気だった。
お昼になる直前、潔は1人、夏休みの学校に向かった。
どこからか「正午から重大な放送があるから、学校に集まるように」との話を聞いたからだった。続きを読む →
1945年(昭和20年)春、礼文磯では一つの噂話が広まっていた。
それは、4月のある日のことだったという。
誰かが、礼文磯の東の森商店に行った。店に入ると、白ひげに白髪の、近所では見たことのない老人が何か買っていた。その老人が店を出るとき、
「この大東亜戦争はな、8月に終わるから」
こう言い残して立ち去ったのだという。続きを読む →
1945年(昭和20年)が明け、1月末に礼文磯国民学校の先生が一人減った。
19歳の新田三郎先生が、出征したのだ。
新田先生は、幼いころに一家で礼文磯に越してきて、本人も礼文磯国民学校の卒業生だった。根室の中学に進み、卒業後に礼文磯に帰ってきていたところ、16歳で礼文磯国民学校の助教として働き始めた。家は吉五郎一家の小屋の西隣だった。
新田先生は若いだけあって熱血漢だった。大きな声で話し、笑い、そして怒った。大東亜戦争の勝利を信じて疑わず、自分にも、そして子どもたちにも「お国のため」に尽くすことを求めた。軍隊調で話し、子どもたちも怖い先生だと思っていた。続きを読む →
1944年(昭和19年)秋。
ある日、礼文磯国民学校の全員で、隣の乳呑路国民学校に行くことになった。
北海道から陸軍の偉い人が視察に来るというのだった。
先生の言葉では、その人はサイツカンと言うのだそうだが、どんな字なのか、みんな見当もつかなかった。軍事教練の進み具合を実際に訪れて調査する人を「査閲官」と言うが、子どもたちにはサイツカンとしか聞こえなかった。
隊列を組んで乳呑路国民学校に着くと、校庭にはすでに数百人の男たちがいた。近くの青年団の人たちだ。幾つかの列になっている。国民学校の子どもたちはそれを校庭の端から見ていた。続きを読む →
1944年(昭和19年)7月下旬から昆布漁が始まると、午前中は潔だけが小屋の居間に置かれ、布団に丹前を着てストーブの傍に横になっていた。熱がやっと下がり、お腹も落ち着いてきたのは8月に入ってからだった。
潔は、昼間の調子のいい時には漢字の書き取りをしたりできるようになった。
「そろそろお粥をやめてご飯にしようかね」
はながそう言ったのは8月中旬に入ってからだ。ご飯を食べられるようになってから体調は急回復した。外にも出られるようになった。
「町山さんのお父さんが海に落ちた」
8月下旬のある日、潔は兄たちから聞かされた。続きを読む →
「カッカ、腹痛い」
1944年(昭和19年)5月に入ってすぐの日の朝、飯を食べた潔ははなに訴えた。
お腹がグーグー鳴り、下の方がつねられたように痛い。
「便所行ってみろ」
便所でしゃがむと下痢が出た。
潔が教えると、はなは潔の額に手を当てた。
「熱も少しある。風邪でも引いたんだな」
潔は学校を休んだ。
数日間寝ていたが、症状はむしろ悪くなった。食べるとすぐに腹が痛くなるため物を食べられなくなった。熱も下がらず身体がだるくてぐったりしている。
はなは潔を5キロ先の乳呑路の診療所で診てもらうことにした。
はなはお腹が随分大きくなっていた。6月末か7月には次の子どもが生まれる。そんなになっていても、はなは小学3年の潔をおぶって行った。続きを読む →
まつ赤に炭がおこつてる
総力戦の只中だ
木の塊も火になつて
お國の大事を守るのだ
櫻も楢もおこつてる
まつ赤になつておこつてる
1943年(昭和18年)から44年にかけての冬、礼文磯国民学校ではこの歌をみんなで合唱した。
与謝野晶子に師事し、戦前はムッソリーニに傾倒した詩人・深尾須磨子が作詞、「鯉のぼり」「春よ来い」「叱られて」「靴がなる」など多数の唱歌で知られる弘田龍太郎が作曲した「木炭の歌」だ。続きを読む →
1943年(昭和18年)6月10日の午後。
克義、ハレ、潔、ハマ子の4人が、約5キロ離れた乳呑路まで歩いていた。
「抱っこ、抱っこ」
3歳のハマ子がすぐせがむが、ハレが叱りとばして引っ張っていく。
10日ぶりではなが帰ってくる日なのだ。
はなは澄子を連れて根室に渡っていた。続きを読む →
1943年(昭和18年)4月。雪も流氷もまだあるが、礼文磯国民学校も新学期が始まった。潔は2年に、ハレは4年に、伸義は高等科の2年に、それぞれ進級した。
しかし6年生の克義は6年生のままだった。初等科の中では飛び級はあるが、高等科に進むには年齢の制限があったからだ。
「これじゃあまるで、オレが落第したみたいじゃないか」
ブツブツ言いながらもそこは優等生の克義だ。力を抜くことなく元気に通っていた。続きを読む →
1943年(昭和18年)1月下旬のある晩。
「さあ、みんな行くよ」
はなが子どもたちに号令をかけた。
良雄から潔まで、男はみんな服を着込み、頭には帽子や手ぬぐいをかぶり、手には軍手やゴム手袋、足は長靴を履いている。それぞれ左手には竹製のかご、右手には木に金属の小さな鎌がついた道具を持っている。
外には潔が真っ先に飛び出した。続きを読む →
12月27日、潔ははなと買い物に出た。
年越しの準備のため、毎年この日にはなは買い物に出かける。はなは背中に澄子を、潔は空のリュックを背負い、2人とも吉五郎の作った長靴を履いて小屋を出た。馬車が通って轍になっている雪道の固いところを選びながら西に向かって歩く。
「危ない、走るな潔」
はなから何度も注意されるが、潔は飛び跳ねるようにして歩いた。続きを読む →
10月いっぱいかかって昆布の出荷が終わり11月に入ると、吉五郎は土間の片隅に積んであった俵を引っ張り出した。米などが入っていたものを1年間、とっておいたものだ。
それを丁寧にほぐしていくと一山の藁になった。
次は克義と潔の仕事だ。
学校に行く前と帰って来た時、毎日決まった分だけの藁を、切り株の上で棒で丁寧にたたく。
そうして柔らかくなった藁を使って、吉五郎は毎日、土間横の板敷きのところで全員分の雪道用の長靴を編み始めた。国後では米はとれないため稲藁は貴重品だ。1年分の俵をため、作業用の縄や冬の支度に使うのだ。続きを読む →
1942年(昭和17年)の秋、礼文磯国民学校では極秘のプロジェクトが進行しつつあった。
スタートしたのは9月17日。夏休みが終ってしばらくしたころだ。
校長が高等科の十数人を集めた。その中には1年生の伸義がいる。
校長は真面目な顔で言う。
「この学校に新しいものを造って残したいと思っている。去年から少しずつ準備してきたんだが、いよいよ本格的な作業にかかろうと思う」続きを読む →
実はもう1人、近所には潔と同世代の子供がいた。1年上の真木尚武だ。尚武は真木午之助の直系の孫だった。裕福で、着ている服も新品、カバンも新品だった。潔たちと遊ぶこともあったが、自分が一番でないと気が済まない。何でも負けるとすぐにヘソを曲げた。釣りでも魚の数や大きさなどでは絶対負けを認めなかった。
尚武が住む真木本家の屋敷は、吉五郎一家が住む小屋の、小川を挟んだ東隣にある。
ある日の放課後、潔は他の友だちと一緒に本家の屋敷に遊びに行くことになった。尚武がみんなを呼んだのだ。続きを読む →
夏のある晩、酔って機嫌のいい吉五郎がはなに鉛筆と紙を持って来させた。
海が荒れて翌日も昆布漁ができそうにない夜だ。夕飯が済んでもすぐ寝る必要もなく、ランプの明かりの下、みんな揃って食卓についていた。
吉五郎は鉛筆の芯を筆の穂先にするようにしばらくゆっくりと舐め回すと、手元の紙に何か書いた。
「おいお前たち、これ書いてみろ」
良雄、伸義、克義、それからはなやハレに紙を渡し、その通り書かせた。その「手本」には金釘のような字でこう書いてあった。
岩手縣九戸郡戸田村大字戸田字晴間澤
吉五郎の生家の住所だった。続きを読む →
朝6時。潔はいつものように目が覚めた。
南向きの窓ガラスから光が差し込み、部屋はもう明るい。一緒に寝ていた兄たちは誰もいない。奥の吉五郎もはなもいない。
白に黒の斑の年取った猫が、脇をゆっくり歩いていく。
潔は近くの四角い座卓にある鍋の蓋を取った。大根やネギの入った味噌汁が残っている。隣の釜からご飯を椀によそい、味噌汁をかけて食べていると、ハレやハマ子も起きてきた。3人で食べる。潔は猫にも同じものを皿に分けてやった。
窓からは「本家の岬」に立っている旗立てが見える。そのてっぺんで白い旗が柔らかな風になびいていた。遠くの海では輸送船が数隻、少しずつ右から左に動いている。
ガラガラッと戸が開く音がした。吉五郎だ。
長袖シャツに作業ズボン、濡れた前掛けは端が塩を吹いて白くなっている。頭には手ぬぐいの捩り鉢巻き。草履を脱いで居間に上がって来て座ると、一緒に入ってきたはなが、吉五郎の朝飯の準備を始めた。
国後の日の出は本州よりずっと早い。7月下旬、日の出直後の朝4時にはもう、吉五郎は沖に出ていた。
爺爺岳の真南、山の裾野と海がぶつかる浜沿いにある集落が、留夜別村礼文磯だ。
7月から9月、礼文磯で浜を持っている家は昆布漁に明け暮れる。1年のほとんどの収入が、これにかかっているからだ。続きを読む →