5 真木本家

 実はもう1人、近所には潔と同世代の子供がいた。1年上の真木尚武だ。尚武は真木午之助の直系の孫だった。裕福で、着ている服も新品、カバンも新品だった。潔たちと遊ぶこともあったが、自分が一番でないと気が済まない。何でも負けるとすぐにヘソを曲げた。釣りでも魚の数や大きさなどでは絶対負けを認めなかった。

 尚武が住む真木本家の屋敷は、吉五郎一家が住む小屋の、小川を挟んだ東隣にある。

 ある日の放課後、潔は他の友だちと一緒に本家の屋敷に遊びに行くことになった。尚武がみんなを呼んだのだ。

 本家では、広い敷地に大きな屋敷と厩、造船場の3棟が建っている。潔たちの住む小屋と同様、村の一本道から50メートルほど陸側に入っているが、小屋と屋敷の間の川には簡単な橋が架けられていて、近所の子どもたちはこの橋を渡り、本家の屋敷の前を通り、敷地を突っ切って村道に出て、川にかかった橋を渡って隣の礼文磯国民学校に通っていた。

 本家の敷地に接している村道の海側は浜ではなく、やや高い崖になっていて、礼文磯の沖が一目で見渡せる。ここは「本家の岬」と呼ばれ、漁協の旗立台が置かれていた。

 屋敷は木造平屋建てのほぼ正方形で、一見するとお寺のような建物だ。家の三方を幅の広い縁側が囲んでいて、建坪は100坪を超えるほど広かった。柾葺きの屋根は、中心の頂点から四方に三角屋根が広がる方形屋根で、日光を採り入れるため数カ所にガラスの入った天窓があった。家の表側には礼文磯では珍しく手入れされた庭があり、植木や石が置かれていた。

 居間の真ん中には囲炉裏の代わりにストーブがおいてある。その周り、家の主人が座る横座にはヒグマの大きな1枚皮が敷かれていた。これは午之助が若かったころ、老登山神社の脇の沢でヒグマに襲われた時、持っていた出刃包丁で倒したものだと言われていた。生前、午之助はいつもこのクマの皮に座っていたという。

 居間以外には畳の座敷が3つあり、続いている2つの座敷の間の襖を開けると30畳ほどの広い空間になった。

 屋敷の東側にある造船場と、南側にある厩は、いずれも幅7、8メートル奥行き20メートル高さ3、4メートルほどの木造平屋の建物だった。

 ハレが初等科に入学する前ぐらいまでは、その造船場にズラリと手漕ぎの船が並び、年に何度か浜までの200メートルほどにコロを敷き、完成した船を運んだものだった。しかし、最近は釘などが足りないのか、作りかけの船はあるものの一向に作業が進まず、潔も進水式を見たことはなかった。

 厩には本家が使う馬車や乗馬用の馬数頭がいつもいた。冬になると、放牧していた生後2年以内の馬がさらに加わり、10頭ほどで満杯になった。厩の奥と天井裏には干し草が積み重ねられ、冬の訪れに備える。礼文磯では成長した馬は冬でも野に放って飼っていた。馬たちは雪がない時期は近くの草原で過ごし、雪が深くなると松の木が茂る森に入り、そこに生える笹などを食べて冬を越すのだった。そして3歳を過ぎると軍馬として出荷されていった。

 年に数回、旅芸人の一座や映画が礼文磯にも来ることがある。その時の公演は決まって本家の座敷や造船場で行われるのだった。

 ハレが幼いころまでは裏口から入って、ただで見せてもらうことも多かった。

 しかし潔が物心ついたころにはもう、本家にはあまり行くことはなくなっていた。1939年(昭和14年)6月、潔が3歳のころに午之助が脳溢血で亡くなると、もうぱったりと呼ばれることがなくなったからだ。本家に行くのはごくたまに風呂を借りる時と特別な時だけで、あとは近所の子どもたちと一緒に遊びに行くのがせいぜいだった。

 午之助が亡くなった後の本家には、午之助の妻のばあちゃんと息子夫婦、その子ども3人の計6人がおり、尚武はその3人の真ん中だった。さらに造船所や厩で働く人数人が、住み込んだり、礼文磯に住みついていた。

 近所には吉五郎一家以外にも親戚が住んでいる。

 礼文磯の東側に住んでいるのが蟹工船を営んでいた真木吉太郎。その近所には真木福造の一家も住んでいる。午之助夫婦はずっと子供に恵まれず、1902年(明治35年)に福造は2歳で真木家の跡取りとして迎えられた。その3年後に尚武の父・庄司が生まれたため、福造は大きくなってから本家を出た。

 しかし、午之助が亡くなった後家督を継いだのは福造で、老登山神社の氏子総代も引き継いだ。午之助の死去に伴い、はなにきちんと浜の相続手続きをしてくれたのも福造だった。福造の妻ははなの妹・富枝だが、はなや潔たちと頻繁に行き来している訳ではなかった。福造は自宅に簡単な工場を持ち、昆布から医療用のヨードを取り出して売る商売をしていた。他にも、午之助の兄弟やその子供たちの世帯がいくつかあった。

 潔は一度小屋に戻って道具を置いてから、みんなに遅れて屋敷に向かった。

 橋を渡って屋敷の敷地に入ると、庭の方から、声と音楽が聞こえて来る。

 本家にはゼンマイ式の蓄音機があり、尚武は100枚ものレコードを持っていた。童謡や流行歌、クラシックもあった。今日近所のみんなが集まったのも、蓄音機で音楽を聴いてもいいよと、尚武が言ったからだった。潔はその音がする方に向かった。

 入り口を過ぎて左に曲がると庭に面した縁側で、そこにみんな腰掛けたり庭で遊んでいた。真ん中に尚武がいて蓄音機が横にあった。

 と、潔と目が合った途端、尚武は蓄音機からさっと針を上げた。急に音が止まり、みんなキョトンとしているが、尚武は涼しい顔をして隣の子どもと話したり本を見たりしている。

 潔が別の子と遊んでいて縁側を離れると蓄音機から音楽が聞こえて来る。清が戻るとパッと尚武は蓄音機を止めた。

 潔は拳を握りしめたが、一度深呼吸し、何も言わずに本家の屋敷からいなくなった。

 その日の夕方、尚武の母親––––本家のおかみさん––––が、回覧板を持って小屋を訪ねてきた。

 「大体分かるのだけど、これは何と書いてあるのかねえ」

 おかみさんは、いつものようにはなに聞いた。

 はなはその文書を読んで内容を教えてやる。

 「ああやっぱりそうだったかね。大体分かるのだけどねえ」

 本家のおかみさんは必ずそう言って帰って行った。

 「分かっているなら聞かなきゃいいじゃないか」

 はなは少し口を尖らせながら、帰っていく後ろ姿につぶやくのだった。

 はなは本家の屋敷に10年以上住んでいたはずだが、そのころの話を子どもたちにしたことはほとんどなかった。

 ただ頭のいい少女で、読み書きなどは何不自由なくできた。所帯を持って日々の生活に追われるようになっても、時間があれば本を読むことを欠かさなかった。

 赤ん坊を「えづこ(嬰児籠)」という木の器に入れ、乳を与える時でも、片手で本を開きながらだった。銃後を守る家族の手記、といった分厚い本を読んでいた。

▼第1章礼文磯 6「花咲蟹の夜」に続く

▼連載第1回 プロローグ「さらば茶々山」へ

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