お別れは、いつものあの言葉で

 昨年10月25日。父・眞下清が入院した翌日、私は始発の東北新幹線に乗って岩手に向かいました。  8月のお盆に帰省した時はまずまず元気だったのに、父はその後の2カ月で急に衰えました。歩くのが不自由になって転びやすくなり、...

父・眞下清、84歳で死去

「Tiatiaの子」の主人公・真木潔のモデルであり、筆者の父の眞下清(まっか・きよし)が11月24日午前8時44分、入院先の病院で亡くなりました。84歳でした。 悪性度の高いがんと診断され、10月24日に入院してからちょ...

この船、高倉山丸だった!

函館引揚援護局史(函館引揚援護局史係編、1950年2月発行)の冒頭には、十ページほどにわたって関係の写真が掲載されています。 上の写真もその中の一コマ。「国旗は埠頭に翻る−感激の上陸−」というキャプションだけで、それ以上...

上陸の地、函館1 西埠頭と検疫所

久々に投稿します。 今年、2019年5月31日から6月2日まで、2泊3日で北海道・函館市を訪れました。 国後などからの引き揚げ者が、樺太・真岡を経由して日本に来た時、上陸した地が函館です。ですがこれまで訪れたことがなく、...

2 吉五郎

 1950年(昭和25年)が明けた。  正月早々、伸義は北海道に出稼ぎに行った。  国後・礼文磯で近所に住んでいた人が、釧路で船を持って漁師をしていた。そこから働かないかと声がかかったのだった。一旦北海道に渡ると年末まで...

5 新憲法

 1949年(昭和24年)春、一家は晴間沢の金松方の作業小屋から、潔が一時世話になった長倉の文治郎宅に引っ越すことになった。  当時の東北では、春になると多くの農家で養蚕が始まる。  養蚕は場所をとる。このためどの養蚕農...

4 吐血

 「おい、吉五郎が血さ吐いで倒れたんだとよ」  1948年(昭和23年)11月末のある晩、潔は文治郎から吉五郎が吐血したと知らされた。  野外での作業を手伝っている時、突然血を吐いてそのまま倒れたのだという。一緒に作業を...

3 みんなで働く

 1948年(昭和23年)9月26日。  岩手県戸田村に引き揚げてきた翌朝、目を覚ました澄子たちはびっくりした。  赤、黄、白、ピンク、藤色、紫…  外に出てみると、家の周りや隣の畑が、色とりどりの満開の花で溢れているの...

2 根室か戸田か

 潔は後で知ったが、国後から引き揚げ直後、つまり1948年(昭和23年)9月の吉五郎一家には大問題が持ち上がっていた。  函館に着いたはいいが、さて、ここからどちらに向かうのか。北海道・根室か、岩手県・戸田村(現在の九戸...

1 真岡収容所

 国後・留夜別村からの最後の引き揚げ者などを乗せたソ連の貨物船・レニングラード号は、1948年(昭和23年)8月29日午後2時過ぎに国後沖を発ち、国後島と択捉島の間の国後水道を北上、樺太・真岡に向かった。  国後島の南岸...

11 レニングラード号

 1948年(昭和23年)8月28日、小学校や寺、個人宅に分かれていた人たちが全員、船着場に集められた。  とは言っても総勢で250人程度だ。  午後4時ごろからソ連の貨物船への乗船が始まった。曇っているが雨は降っていな...

10 最後の宴

 1948年(昭和28年)8月20日すぎ。  日本とソ連との調整も整ったようで、月末には引き揚げの船が来ることが伝えられた。  7月末に集められてから3週間。少々弛緩した空気が漂っていた国後島・留夜別村の乳呑路は、再び高...

9 連行

 1948年(昭和23年)8月、引揚命令直後の騒ぎも落ち着き、乳呑路・孝徳寺での生活にも慣れてくると、子どもたちはだんだんと暇を持て余すようになった。  潔、喜充、正策、そして尚武の4人は、しばらくは寺の境内や乳呑路国民...

8 強制引揚命令

 1948年(昭和23年)7月30日。  朝、上の兄3人はいつものようにノツカの製材工場に出勤した。曇ってはいたが暑い日で、気温は午前中に20度を超えた。  ハレは食器洗いや洗濯など、朝の仕事をしていた。  しばらくする...

7 異国の人

   1947年(昭和22年)秋から48年にかけては、真木家にとって商売繁盛の時になった。  夏、家の前の浜全部でジャガイモを栽培したのだ。  そしてそれが大収穫となった。

6 特製ベスト

 礼文磯にソ連の民間人が入ってきたのは、1947年(昭和22年)になってからだった。  礼文磯の西の外れ、墓地に通じる道の辺りに、戦後すぐ北海道に逃げた家が数軒あった。その空き家に、いくつかの家族が住みついた。その後次第...

5 釣りと狩り

 1946年(昭和21年)、舟が焼かれた礼文磯では海に出ることができなくなったため、魚は川で釣るか、磯で取るしかなくなった。  秋、サケやマスを獲る季節の前に、潔たち3人組はしっかりとした竿を作ることにした。  「おいヨ...

4 ジャガイモ畑

 1946年(昭和21年)5月、畑仕事が始まった。  昆布漁がなくなり、ソ連の命令で舟も焼かれた今、家族の主な仕事は農作業になった。  裏の野菜畑、1段上がった所のジャガイモ畑を耕し、昨年と同様のものを植え、種をまいた。...

3 舟を焼かれる

   真木一家が住む新田家の裏は、10メートルほどの崖になっていた。冬になるとそこに雪が積もり、1月が終わるころにはそれがカチカチに凍って天然のスロープになった。  1946年(昭和21年)2月中旬のある日、ハ...

2 オロージャ

 近くに住んではいなかったが、礼文磯にはその後も、ソ連の軍人が食べ物が欲しいといってやって来ることがあった。  礼文磯にくるロシア人たちは悪いことはしなかった。5人、10人など集団で来るようになり、そのうち住民たちも怖が...

1 マス釣り

 真木吉五郎の一家は、1945年(昭和20年)の冬を礼文磯で越すことを覚悟しなければならなくなった。  しかしこの年は、例年にも増して冬への備えが貧弱だった。  いつもなら、夏の間必死で採った昆布を売り、その代金で米や味...

9 涙のぼたもち

 礼文磯では、1945年(昭和20年)8月15日の終戦を、ほとんどの家がそこで迎えたが、占領前に北海道に脱出した家もあった。  例えば2軒隣の矢野家だ。  矢野家では北海道側の泊村に親戚がいたため、礼文磯の家を捨ててみん...

8 上陸

 東京の空には灰色の雲が垂れ込めていた。風はなく、海は静かだった。  1945年9月2日、朝9時。東京湾の米艦ミズーリ上で、降伏文書の調印式が行われた。  降伏文書に外相ら日本側が調印したのは9時4分。連合国側はマッカー...

7 センソウ、マケ

 1945年(昭和20年)8月15日。  国後も晴れていた。暑くはなく爽やかな天気だった。  お昼になる直前、潔は1人、夏休みの学校に向かった。  どこからか「正午から重大な放送があるから、学校に集まるように」との話を聞...

5 先生の出征

 1945年(昭和20年)が明け、1月末に礼文磯国民学校の先生が一人減った。  19歳の新田三郎先生が、出征したのだ。  新田先生は、幼いころに一家で礼文磯に越してきて、本人も礼文磯国民学校の卒業生だった。根室の中学に進...

4 三角点

 1944年(昭和19年)秋。  ある日、礼文磯国民学校の全員で、隣の乳呑路国民学校に行くことになった。  北海道から陸軍の偉い人が視察に来るというのだった。  先生の言葉では、その人はサイツカンと言うのだそうだが、どん...

3 鼻血

 1944年(昭和19年)7月下旬から昆布漁が始まると、午前中は潔だけが小屋の居間に置かれ、布団に丹前を着てストーブの傍に横になっていた。熱がやっと下がり、お腹も落ち着いてきたのは8月に入ってからだった。  潔は、昼間の...

2 命

 「カッカ、腹痛い」  1944年(昭和19年)5月に入ってすぐの日の朝、飯を食べた潔ははなに訴えた。  お腹がグーグー鳴り、下の方がつねられたように痛い。  「便所行ってみろ」  便所でしゃがむと下痢が出た。  潔が教...

1 進路

 まつ赤に炭がおこつてる  総力戦の只中だ  木の塊も火になつて  お國の大事を守るのだ  櫻も楢もおこつてる  まつ赤になつておこつてる  1943年(昭和18年)から44年にかけての冬、礼文磯国民学校ではこの歌をみん...

12 カッカを迎えに

 1943年(昭和18年)6月10日の午後。  克義、ハレ、潔、ハマ子の4人が、約5キロ離れた乳呑路まで歩いていた。  「抱っこ、抱っこ」  3歳のハマ子がすぐせがむが、ハレが叱りとばして引っ張っていく。  10日ぶりで...

11 春

 1943年(昭和18年)4月。雪も流氷もまだあるが、礼文磯国民学校も新学期が始まった。潔は2年に、ハレは4年に、伸義は高等科の2年に、それぞれ進級した。  しかし6年生の克義は6年生のままだった。初等科の中では飛び級は...

10 冬の日

 1943年(昭和18年)1月下旬のある晩。  「さあ、みんな行くよ」  はなが子どもたちに号令をかけた。  良雄から潔まで、男はみんな服を着込み、頭には帽子や手ぬぐいをかぶり、手には軍手やゴム手袋、足は長靴を履いている...

9 年越し

 12月27日、潔ははなと買い物に出た。  年越しの準備のため、毎年この日にはなは買い物に出かける。はなは背中に澄子を、潔は空のリュックを背負い、2人とも吉五郎の作った長靴を履いて小屋を出た。馬車が通って轍になっている雪...

5 真木本家

 実はもう1人、近所には潔と同世代の子供がいた。1年上の真木尚武だ。尚武は真木午之助の直系の孫だった。裕福で、着ている服も新品、カバンも新品だった。潔たちと遊ぶこともあったが、自分が一番でないと気が済まない。何でも負ける...

4 子どもたち

 「あんちゃ、ちょっとこれ聞いててくれよ」  ある日、6年生の克義が良雄に頼んだ。  「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく…」  克義はすらすらと暗唱していく。  「…にんこう、こうめい、めいじ、たいしょう、きんじょう。...

3 岩手と石川

 夏のある晩、酔って機嫌のいい吉五郎がはなに鉛筆と紙を持って来させた。  海が荒れて翌日も昆布漁ができそうにない夜だ。夕飯が済んでもすぐ寝る必要もなく、ランプの明かりの下、みんな揃って食卓についていた。  吉五郎は鉛筆の...