10 最後の宴

 1948年(昭和28年)8月20日すぎ。

 日本とソ連との調整も整ったようで、月末には引き揚げの船が来ることが伝えられた。

 7月末に集められてから3週間。少々弛緩した空気が漂っていた国後島・留夜別村の乳呑路は、再び高揚感と緊張感に包まれた。

 大人たちの関心は、引き揚げ時の手荷物に集中していた。

 ソ連から各班の代表者を通じて伝えられていた公式の話では、持ち込んでいい荷物は1人1つで世帯主13キロ、家族7キロとされていた。ただ、途中の検査でほとんど奪われてしまうなどといった噂も流れており、みんな疑心暗鬼になりながら、なるべく多くの荷物を持ち込もうとしていた。

 真木家は11人家族と人数が多いのが強みだった。2歳の秀子はもちろんのこと、4歳の陽子、6歳の澄子も荷物を持てるというほどでもないが1人分として認められており、家族全体では80キロ以上の荷物を持ち込むことができる計算だった。

 ただ、人数が多いということは食料がたくさん必要だということでもある。引き揚げにどのぐらい期間がかかるのかも皆目分からなかった。そのため、はなは少しでも多くの食料を持ち込もうと、密かに細工をしていたようだった。

 もうすぐ船が来そうだ、ということになり、礼文磯から多めに持ってきた米などを荷物に詰めたが、まだ数俵分の米が残っていた。乳呑路に滞在しているときも、いつまでいるか分からないため米は節約し、ほとんどの食事はジャガイモかかぼちゃで済ませていたのだった。

 「あーあ、ここでも米を残していくのか」

 伸義や潔はお堂の隅に置いてある米俵を叩いた。

 26日午後。

 孝徳寺に滞在している礼文磯班の女たちは、忙しく動き回っていた。

 前日、28日には船が来る、という知らせがあった。そこでここで最後の宴会をしようというのだ。

 言い出したのは吉五郎だった。

 孝徳寺には真木家の米がまだ2俵分も残っていた。米などとうになくなった家がほとんどだが、みんなに配るには少なすぎた。

 「このまま置いてってロスケに食われるのも癪だ。だったら最後ぐらいパーっと食って飲んで歌おう」

 浪費の大嫌いな吉五郎が見せた、たった一度の大盤振る舞いだ。

 世話役になっていた良雄に話し、この日に大宴会を開くことになったのだった。

 大宴会といっても米の他はジャガイモやかぼちゃしかない。自家製のドブロクは当然ない。

 暗くなって宴会が始まるころ、伸義や克義が木の箱に入った荷物を運んできた。

 「おう、来たか」

 吉五郎が箱から取り出したのは、10本ほどのウオッカやサラミだった。

 吉五郎は伸義たちをやって、乳呑路のロシア人の店から酒やつまみを買って来させたのだった。

 この3年間、吉五郎は一家で得たルーブルをほとんど使わずに懐に貯めてきた。良雄、伸義、克義の製材工場での給料が毎月合計1000ルーブル以上。さらにロシア人にジャガイモなどを売って得た収入がそれ以上あり、おそらく5万ルーブル程度は持っていたに違いなかった。そんな吉五郎にとって酒の10本ぐらい買うのは何でもなかった。

 「おお山中さん。飲んべえの本領発揮だな」

 周りの人たちに変な褒められ方をしながら、それでも吉五郎は上機嫌で飲み、みんなに酒を振る舞い、江差追分を歌った。男も女も、飲んで歌って踊った。良雄も伸義も、宴席に加わった。

 子どもたちも、米のおにぎりをもらい腹一杯食べた。

▼第3章抑留 11「レニングラード号」に続く

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