16年ぶり礼文磯上陸、地図上の位置も計測

父の生家があった国後島旧留夜別村礼文磯沖から見た爺爺岳。父の生家は当時、このほぼ正面の海岸付近にあった=8月3日

 2019年8月3日午前7時過ぎ、父・清の生家のあった国後島旧留夜別村礼文磯の浜に上陸しました。

 千島歯舞諸島居住者連盟による自由訪問団の一員としてです。私の礼文磯上陸は、2003年(平成15年)8月27日、引き揚げ後初上陸の父・清と訪れて以来16年ぶり2度目。今回は親族のいない一人だけの国後訪問になりました。

 今回の最大の目的は、父の生家や礼文磯小学校などがあった場所を、地図上に落とせるようにすることでした。

 現在販売されている国後島の地図には薄い色で小学校などが入っていますが、それは1922年(大正11年)の測量によるもの。とても見づらい上に5万分の1の地形図しかありません。

 この辺りは自然保護区となっており、もう数十年も誰も住んでいません。建物は全くなく、人工物は終戦前からあった電信柱が今でも数十メートルおきに段丘の高いところに立っているのが見えるのみです。

昔の村道は藪に覆われており、クマの危険もあることから、海岸を歩く方が安全だし楽です。

 こんな状況では将来子どもや孫が礼文磯に上陸しても、どこに何があったのか全く判別できません。

 そこで今回、スマホのGPS機能を使い、キーポイントについて衛星からの位置情報を記録することにしました。

 今回測定したのは、場所の特定につながる2本の川の位置です。礼文磯小学校と真下本家の間を流れる「学校の川」、真下本家と父の生家の間を流れる「真下さんの川」。この2つの川の位置を特定しました。これらの川は小さくて、グーグルマップにも国土地理院の地図にも記載されていないものです。

 掲載した地図上にある「学校の川」「真下さんの川」の赤点が、測定された緯度経度を国土地理院の地図に落とした地点です。

 「学校の川」が北緯44度16分20秒46東経146度14分26秒26。

 「真下さんの川」が北緯44度16分20秒58東経146度14分22秒87。

 それぞれ、川が上流の草むらから浜に流れ出した地点で、川の線は聡が地形などから暫定的に引いたものです。

 その上で、父の話や兄が以前撮ったビデオなども参考に、小学校や家の位置を置いてみました。実際の位置とは恐らく50メートルも違わないはずです。

 ただし学校や家を含む人工物は現在、近年建てた小さな墓標と当時もあった電信柱を除けば何もありません。小学校跡には天皇の写真や教育勅語を納めた奉安所の基礎が残されており、16年前には確認できましたが、今回は時間がなくて確認できませんでした。

 上陸した8月3日は午後から晴天に。ガスの多いこの季節、かかる雲が一つもない珍しいの写真が撮れました。16年前は5キロ離れた海上に停まったため、礼文磯の全景は撮れなかったのですが、今回はバッチリ。慰霊式をする墓標、上陸地の砂浜も含め、位置関係がとてもよく分かるようになりました。

 今回は8月1日に根室で結団式をした後、2日に出航。3日に白糠泊と礼文磯、4日に礼文磯と乳呑路に上陸、5日に帰るという旅程。

 私はその中で3回島に上陸。乳呑路では父たちが引き揚げ時に収容された寺の付近を訪れたり(建物は何もありません)、父の話に出て来た小山「三角点」を確認することもでき、とても有意義な旅になりました。

 北方四島の自由訪問は訪問先が多いため、礼文磯に上陸できるのは数年に1度。今後機会があればぜひ、次世代の誰かを連れて行きたいと願っています。