10 最後の宴

 1948年(昭和28年)8月20日すぎ。  日本とソ連との調整も整ったようで、月末には引き揚げの船が来ることが伝えられた。  7月末に集められてから3週間。少々弛緩した空気が漂っていた国後島・留夜別村の乳呑路は、再び高...

9 連行

 1948年(昭和23年)8月、引揚命令直後の騒ぎも落ち着き、乳呑路・孝徳寺での生活にも慣れてくると、子どもたちはだんだんと暇を持て余すようになった。  潔、喜充、正策、そして尚武の4人は、しばらくは寺の境内や乳呑路国民...

8 強制引揚命令

 1948年(昭和23年)7月30日。  朝、上の兄3人はいつものようにノツカの製材工場に出勤した。曇ってはいたが暑い日で、気温は午前中に20度を超えた。  ハレは食器洗いや洗濯など、朝の仕事をしていた。  しばらくする...

7 異国の人

   1947年(昭和22年)秋から48年にかけては、真木家にとって商売繁盛の時になった。  夏、家の前の浜全部でジャガイモを栽培したのだ。  そしてそれが大収穫となった。

6 特製ベスト

 礼文磯にソ連の民間人が入ってきたのは、1947年(昭和22年)になってからだった。  礼文磯の西の外れ、墓地に通じる道の辺りに、戦後すぐ北海道に逃げた家が数軒あった。その空き家に、いくつかの家族が住みついた。その後次第...

3 舟を焼かれる

   真木一家が住む新田家の裏は、10メートルほどの崖になっていた。冬になるとそこに雪が積もり、1月が終わるころにはそれがカチカチに凍って天然のスロープになった。  1946年(昭和21年)2月中旬のある日、ハ...

1 マス釣り

 真木吉五郎の一家は、1945年(昭和20年)の冬を礼文磯で越すことを覚悟しなければならなくなった。  しかしこの年は、例年にも増して冬への備えが貧弱だった。  いつもなら、夏の間必死で採った昆布を売り、その代金で米や味...