3 舟を焼かれる

 

 真木一家が住む新田家の裏は、10メートルほどの崖になっていた。冬になるとそこに雪が積もり、1月が終わるころにはそれがカチカチに凍って天然のスロープになった。

 1946年(昭和21年)2月中旬のある日、ハレはハマ子や澄子と、その坂でそり遊びをしていた。

 はなは臨月を迎えていた。

 いつ産んでもいい状態で、身体がきつそうにしていた。

 ハレはそんなはなを少しでも休ませたかった。

 3人は、箱型の小さなソリで坂を降りて遊んでいた。

 とはいっても坂の下の方2、3メートルぐらいのところだ。乗ると2、3秒で終わってしまう。

 順番に乗るが、すぐ終わってしまってつまらない。

 「もっと上から乗ろうよ」

 妹たちにせがまれて、ハレは坂の上まで連れて行った。

 上から見下ろすと、急坂だった。

 「大丈夫かな」

 頭の隅を不安が少しだけよぎった。

 「早く、早く」

 そう言われて気にしないことにした。

 「じゃあ、最初はハマ子と澄子で行くよ」

 ハレは明るい声で2人をソリに乗せた。

 「行くよ」

 そう言って、後ろに乗っているハマ子の背中を少しだけ押した。

 動き出したソリは、次の瞬間、アイスバーンの急坂を一気に降りていった。

 ハレは思わず目をつぶった。

 ガシャン

 大きな音で目を開けると、ソリが坂の下でひっくり返っていて、2人はソリの前方に飛び出し転がっている。

 白い雪の上に、赤いものがパッと飛び散っていた。

 よく見ると澄子の顔から血が出ていた。

 ハレは慌てて坂を降りた。

 家からは、泣き声を聞いたはなが、大きなお腹にも構わず飛び出してきた。

 「ハレ、何をやった」

 はなは2人とソリを見てハレを叱りつけた。それから血を出している澄子を抱き上げて顔を見た。

 「ああ、口の下が切れてるなあ」

 そう言って被っていた手ぬぐいを澄子の口に押し当てた。

 「大丈夫、診療所に行くほどじゃないよ。泣くな」

 そう言って、澄子を抱いて家に入ろうとした。

 入る間際に振り返り、ハレに言った。

 「ソリを片付けて、ハマ子を連れておいで」

 ハレは泣いているハマ子を起こし、ひっくり返ったソリを片付けて家に帰った。

 自分の方が大声を上げて泣きたい気分だった。

 数日後の2月18日、はなは新しい家で女の子を産んだ。40歳。11回目の出産だ。いつものように難産だったが、北海道に脱出していなかったあやばあが、いつものように取り上げてくれた。名前は秀子(しゅうこ)と名付けられた。

 真木吉五郎一家はこれで、夫婦と息子4人、娘5人の11人家族になった。

 南風が吹き、流氷が去り、雪が消え、礼文磯にも春が戻ってきた。

 草が芽吹いてくると、潔に日課ができた。

 馬を草の生えているところに連れて行き、食べさせることだ。

 春先はまだそれほど草が生えているわけではない。潔は沼にはまらないよう、注意して草を食べさせた。

 行き帰りのときに、沼に落ちて動けなくなっている馬を見つけて知らせたこともあった。舟が使えるようになると、刺し網の仕事も復活した。

 山菜に魚、時には馬肉と、食卓はぐっと豊かになった。

 オロージャからの土産やソ連軍からの配給品、備蓄の米などを合わせると、当面生きていくのに大きな不自由はなくなった。

 上の兄3人は木材工場、はなは生後間もない秀子の世話、ハレは妹3人の子守、潔は馬の世話と魚獲り、それに冬の間に切り出した木を薪にする生活。山菜は合間にみんなで採りに行った。吉五郎は薪づくり以外はストーブの前で腹を暖めていることが多かったが、オロージャを歓待するためのどぶろく作りは欠かさなかった。

 春になっても、北海道に渡るための情報は何も来なかった。

 島の住人は何も知らなかったが、このころ、国後の帰属を巡る様々な動きが出ていた。

 1月末、日本を占領している連合国軍の最高司令官名で日本政府に出された命令がある。SCAPIN677と呼ばれるこの命令では、国後を含む北方四島も「日本の範囲から除かれる地域」とされた。

 それを受けてか、2月に入ってすぐ、ソ連は千島列島をソ連の領土とすると宣言。3月には、千島列島はソ連の「南樺太民政局」の管轄として民政に移行した。

 日本側は前年12月、根室町長がマッカーサー連合国最高司令官に対し、北方領土の返還を求める初めての陳情をしていたが、事態は全く逆の方向に動いていた。

 4月、ソ連の占領下でも学校が開かれているところでは、入学式があり、新入生を迎えた。

 礼文磯国民学校は、戦後すぐに閉校状態になり、正式な形では一度も再開しなかった。

 ただ、校長先生は学校の横の住宅に住んでいた。音楽と算数が得意で、子どもたちが遊びに行くと、よく時間の計算を教えてくれた。あとはオルガンを弾いてみんなで歌を歌ったりした。

 校長本人は乗り気ではなかったが、ソ連の当局者から「学校を再開せよ」と何度か言われたようだった。

 そこで、礼文磯でも形だけの入学式を行うことになり、連絡が回ってきた。

 真木家ではハマ子が入学する年だ。

 はなは自分の羽織を解き、綺麗な裏地を取り出した。それを仕立てを生業にしている人に頼み、上着と膝丈のブルマにしてもらった。

 真木家では一番上のハレはともかく、妹たちはそのお下がりを順番に着るのが普通だ。初めて新品の服をあつらえてもらい、ハマ子は着てみては大喜びで走り回っている。

 「いいなあ」

 羨ましげに見ていたハレがつぶやくと、

 「お前はいつも新品だろ」

 と、はなにたしなめられた。

 入学式にハマ子が行くと、同級生の女の子は4人しかいなかった。

 結局ハマ子はそれ以降学校に通うことはなかった。

 しばらくして、家に校長が訪ねてきた。

 「学校を開いてロシア語を教えろ、ってソ連のヤツが言うんだよ」

 校長先生は、困ったような顔で愚痴を言うのだった。

 それでも命令には逆らえないため、良雄の書いたロシア語のアルファベットや単語を写して帰った。

 何日かして潔たちが学校に遊びに行くと、校長先生はその時いた子どもたちを教室に入れ、黒板にそれを書いて教えた。

 а、ъ、в…

 潔もその時にロシア語のアルファベットを覚えた。単語もいくつかは書けるようになった。

 しかし学区の小学生はその時点でもう3分の1以下に減っており、学校に遊びに来るのも3人とか5人とかしかいなかった。まともな授業は結局行われなかった。

 5月のある日、誰かが家の玄関を叩いた。

 ハレが開けると、ソ連の軍人が何人かと、乳呑路から来たという日本人が何人か立っていた。

 慌てて吉五郎を呼ぶ。潔も後ろからついてきた。

 軍人がロシア語で書かれた紙を広げた上で、何か言った。横に立っている日本人の係の男が説明した。

 「ソ連本国政府の命令で、日本人居住者が持つ舟はすべて焼くことになったそうだ。浜の船着場にある舟はあんたの所のか」

 「はあ…そうですが」

 「今から全部焼くが悪く思わんでくれ。スターリンの命令だそうだ」

 それだけ言うとみんなはゾロゾロと浜に歩き始めた。

 兄たちは工場に行っていない。潔は家から飛び出し、浜について行った。

 浜には、北海道に逃げることができた新田家と矢野家の小舟も放置されていた。

 この2艘に、真木家の2艘、さらに本家の舟1艘の計5艘が新田家の浜に集められ、積み重ねられた。

 本家の尚武も見に来た。

 人夫の男が無造作にマッチで火をつけた。

 ささくれ立っている所から燃え始め、ペンキを塗っていることもあって、一気に燃え上がった。

 「じゃあ、次に行かねばならないのでな」

 係の男がそれだけ言うと、一行は村道を東に進んでいった。

 潔と尚武は、舟が燃え尽きるのを見ていた。

 2人とも何も言わなかったが、これで北海道に逃げる方法がなくなったことは子供にも分かった。

 地域によっては舟を焼かずに取り上げたところもある。留夜別村の役場のある乳呑路では、住民の舟はすべて浜の1カ所に集められた。舟は三重五重にも重ねられ、その周りの四隅に柱を立て、有刺鉄線で囲んだ。ご丁寧にその前で鉄砲を持った兵隊が番をした。

 ▼第3章抑留 4「ジャガイモ畑」に続く

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