2 オロージャ

 近くに住んではいなかったが、礼文磯にはその後も、ソ連の軍人が食べ物が欲しいといってやって来ることがあった。

 礼文磯にくるロシア人たちは悪いことはしなかった。5人、10人など集団で来るようになり、そのうち住民たちも怖がらなくなった。

 彼らが欲しがったのは食料が多かったが、「女房に贈るんだ」と女性用の着物を欲しがる者もいた。

 言葉が全然分からなくても交換はできた。ロシア人は身振りでジャガイモが欲しいと言いながら、貴重品のマッチやパンなどを差し出してくる。それで話が成り立った。

 そのうちこっちが「ジャガイモ」というと向こうも「ジャガイモ」と言うようになり、言葉を互いに憶えるようになった。

 「ロシア語で何と言うの」

 みんなが聞くと、ロシア語の単語や会話を教えてくれた。みんな少しずつロシア語が分かるようになってきた。

 中でも良雄にはロシア語が分かる友人がおり、その人に学んだりして、あっと言う間に上手に話したり読んだりできるようになった。

 礼文磯で最もロシア語が分かるようになったため、すぐ地区の配給係になった。

 礼文磯の東、日本軍の守備隊が置かれた白糠泊には多くの食料備蓄があった。それらはソ連軍によって接収され、ソ連本土からの物資とともに、住民への配給に回された。

 良雄は配給についてだけでなく、あらゆることでロシア人と交渉するときには間に立つようになった。

 実直で決して冒険をしない良雄の性格は、日本側住民だけでなく、ロシア人からも信頼されるようになった。

 良雄は国民学校高等科を卒業すると、礼文磯から西に数キロ離れたノツカにある国後製材合資会社野塚工場の帳場で働くようになった。終戦直前の一時期は乳呑路の防空監視所に行ったが、終戦後それもなくなると、再び製材所に戻っていた。

 その製材所はソ連軍が来るとすぐ接収され、一旦仕事はなくなったが、ソ連はすぐ稼働させようと冬前から準備を始めた。

 その工場長としてやってきたのが、ロシア人のオロージャだった。

 礼文磯にはソ連軍の部隊がいるわけでもなく、ロシア人が住んでいるわけでもない。製材所に関係したロシア人たちは乳呑路に住んでいて、オロージャもそこから馬で通っていた。

 製材所の再開に当たり、良雄は準備作業の時から呼ばれた。

 経理的なことも含む事務作業を、良雄はオロージャから任されるようになった。

 「明日、オロージャが遊びに来るとさ」

 ある日、良雄がみんなに告げた。

 「ロシア人だろ、何を出せばいいのかい」

 心配するはなに、良雄は笑顔で答えた。

 「大丈夫、いつものおかずに酒があればいいよ」

 翌日の昼前、本当にオロージャがやってきた。1人で、赤毛の年取った馬に乗ってきた。

 オロージャは赤ら顔の典型的なロシア人の容貌で、身長が170センチぐらい。いつも作業着を着て、戦闘帽のような帽子から左右に髪の毛がはみ出ていた。

 ストーブの側の座卓に、オロージャ、良雄、吉五郎が座って、酒を酌み交わす。酒は自宅で作っているどぶろくだ。はなや潔たちは遠巻きに3人を眺めている。

 ハレたち四姉妹は別の部屋にいたが、時折こっそり覗いては、笑っているオロージャと目が合って、慌てて隠れたりしていた。

 「ハラショー、ハラショー」

 吉五郎がお椀に酒を注ぐ度に、オロージャは笑顔で答えた。

 吉五郎が何か聞くと、それを良雄が訳し、オロージャが答える。

 話によると、オロージャは元軍属で、結婚していて子どももいるが、まだ国後には来ていないということのようだった。

 「お前ほど、子どもが多くはないがな」

 そういって吉五郎の肩をたたいて笑った。

 髭が濃くて、潔の目には50歳ぐらいに見えたが、本当は何歳なのか分からなかった。

 結局オロージャはジャガイモ、魚の煮付けなどをつまみながら酒を飲み、2時間ほどいて帰った。帰り際、はなに大きなサラミを渡し、吉五郎と握手して馬に乗って行った。

 「面白い男だな」

 見送った吉五郎が言った。

 オロージャは週に1回は遊びに来るようになった。

 そしてそれを歓待するのは良雄よりも吉五郎だった。

 オロージャはみるみるうちに日本語が上手くなった。

 「トウチャン、ドブロク、ヤリマショウ」

 毎週日曜の朝9時ごろになると、こんなことを言いながら家の戸を開けてくる。吉五郎はオロージャの来るのを待っていて、自分で作ったどぶろくで杯を酌み交わした。オロージャは昼過ぎぐらいまでいて、酔っ払っては馬に乗って帰って行ったが、食料の土産を持ってくることは忘れなかった。ある時は「モカモカ」と言う黒パンの原料。それを60キロ入りの袋でどんと持ってきたり、大きなサラミだったりした。

 オロージャは、乗馬がとてもうまかった。そのうち、克義が見つけてきた栗毛の馬「アカ」を気に入って、それを欲しいと言い出した。

 アカはとても気の強い、落ち着きのない馬で、人の言う通りにはなかなか動かなかった。なんとか乗りこなそうとしていた克義も何度も振り落とされていた。

 オロージャは酒盛りしながら克義からアカの話を聞いて興味をもったようだった。実際に見てみるとその気の強さとよく走れそうなのが気に入ったらしい。

 「オレの馬と取り替えてくれ」

 そう言い、2日もしないうちに本当に来て、馬を取り替えて行った。

 ところがオロージャの馬は、年老いてあまり走れず、すぐ使い物にならなくなった。結局克義がどこかで別の馬を見つけてきた。

 製材工場は、1946年(昭和21年)の2月ごろから操業を再開した。そこに礼文磯を含む周辺の働ける男たちは全員動員された。

 真木家でも上の兄3人が、そこで毎日働くようになった。ロシア語の分かる良雄は帳場で事務、伸義は木切り。克義は板材などの加工だった。

 強制的な動員でも月給があり、伸義や克義は月300ルーブル。良雄はその倍以上もらった。300ルーブルといえば、黒パンを作るモカモカが60キロ入りの袋で300ルーブルということだった。

 月給が出ると、吉五郎が全部受け取って懐に入れた。そもそもルーブルで物を買える店などないため、いくら貯まっても意味がないのだった。

 山での木の切り出しに動員される人もいた。

 喜充の本川家では、兄は真木三兄弟と同じノツカの工場だったが、父親の豊三郎は山に動員された。爺爺岳のさらに北の奥にあるルルイ岳の周辺で、占領前にそこに出稼ぎに行ったことがあり、経験があるということで動員されたようだった。そこの松は根元の直径が1メートル以上もある木が密集しているので有名だった。

 何カ月か続けて山で働き、たまに帰ってきては、すぐまた山に送られた。

 山の中に100メートルもある大きな三角の小屋が建ててあり、そこに大勢の男たちが住まわされた。1棟にドラム缶のストーブを10も据えて、冬は四六時中ボンボン火を焚いていた。周辺の木を切り終われば場所を移り、また切り出しにかかるのだった。

 そんなことで、本川家では父親がほとんど不在だったが、そんな家にもロシアの軍人が来て泊まっていくことがあった。

 占領が始まってすぐの頃に一度泊めたことで顔なじみになった軍人で、スミスという名前だった。

 スミスは何人かとやって来ては、日が暮れてしまうと「泊めてくれ」と本川家に来るようになった。喜充はスミスが来ると、翌日が楽しみだった。

 スミスは鉄砲の名手なのだ。

 朝飯を食べてからスミスたちが家を出ると、喜充は潔も誘って村道まで見送りに行く。村道に出ると、磯の中に例の三角岩が見える。そして岩の上には黒い鳥が止まっていることが結構あった。ウミウだ。

 ある時、その三角岩に三羽のウミウが止まっていた時があった。

 「あれ、打ち落とせるかい」

 喜充がスミスに聞く。

 「さあ、どうかな」

 スミスは笑いながら肩に掛けていたライフル型の鉄砲を下ろし、100メートル以上離れた三角岩の方に向けて鉄砲を構えた。

 構えたまま、スミスは動かない。喜充と潔は耳をふさいでじっと見ている。スミスの2人の仲間は笑顔でそれを眺めている。

 ウミウが少しずつ動き、3羽の姿が重なった時、スミスは引き金を引いた。

 「バーン」

 1発の銃声が響き、少しすると、三角岩のウミウは3羽とも倒れてしまった。

 「ハラショー、ハラショーだ」

 喜充と潔はそういいながら拍手すると、スミスは「どんなもんだい」という感じの笑顔を見せた。

 「あれ、もらってもいいか」

 「ああ、いいとも」

 「やったあ」

 2人は歩き出したスミスたちに別れも言わずに、三角岩に走って行った。

 ▼第3章抑留 3「舟を焼かれる」に続く

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