1 マス釣り

 真木吉五郎の一家は、1945年(昭和20年)の冬を礼文磯で越すことを覚悟しなければならなくなった。

 しかしこの年は、例年にも増して冬への備えが貧弱だった。

 いつもなら、夏の間必死で採った昆布を売り、その代金で米や味噌、衣類、石油などを買い、さらに燃料となる薪を1年かけて準備し、魚を干したり塩漬けにしたり、野菜を保存したりして冬を迎えた。

 しかし8月の敗戦以降、この年の冬を礼文磯で過ごすことなどあまり考えていなかったため、冬に備える作業を十分には行えていなかった。

 ソ連の占領により北海道との自由な交通はとうに途絶えており、必要なものを買うこともできない。小屋の土間には8月14日までに作業した昆布が積んであったが、今や何の役にも立たなかった。

 食べ盛りの8人の子どもを抱え、普通なら途方にくれそうなところだ。

 だが、悪い事ばかりではなかった。

 一つには、例によって3年分は何とかなるぐらいの食料の備蓄があったことだ。

 小屋の一角には、米だけでも15俵ほどが積まれていた。味噌や塩も新しく買うことはもうできないが、まだだいぶ残っているので当分困ることはなかった。

 もう一つは働き手がたくさんいたことだ。

 冬に向かうため野菜はもう今から植えることはできない。あるもので我慢することになる。しかしタンパク源の魚はこれからでも冬に備えることができる。潔たちの日課である魚獲りがますます重要になった。ただ、北海道への逃走が増えてきたころから沖合に出ての魚獲りは徐々にできなくなり、川でのマスやサケ釣りに力を入れざるをえなくなった。

 ある日のこと、克義が白い馬に乗って家に帰ってきた。

 馬は背の低い白い道産子で、飼い主が北海道に逃げ、その時に野に放していった馬のようだという。

 「シロ、シロ」

 克義が試しに呼んでみると、おとなしく寄ってきた。乗ると従順で力も強そうだ。克義はそのままシロに乗って家に連れ帰ってきたのだった。

 国後の陸上交通の主力は馬だが、これまでは本家の馬車に乗せてもらうことはあっても、真木家で馬を持つことはなかった。シロが来たのは大歓迎だった。

 シロは矢野家の空き家を厩にして世話をすることにした。

 この後克義はアカと栗毛の2頭の馬も見つけてきて、3頭を飼うことになった。

 馬を3頭も飼うためには冬を越すための飼料がたくさん必要になる。男たちは雪が降るまで周りの草原の草を刈っては干し、空き家となった矢野家の中に積み上げた。

 隣の本川家でも馬を手に入れ、矢野家の作業小屋に置いた。

 馬が手に入ったことで、行動範囲はぐっと広がった。乳呑路の西の外れを流れている、一帯で一番大きなオネベツ川までサケやマスを釣りに行けるようになった。

オネベツ川の流れ=公益社団法人千島歯舞諸島居住者連盟「戦前の北方四島写真収録集」より

 10月下旬、潔も伸義・克義と一緒にオネベツ川に釣りに行くことになった。

 潔は川ではイワナやヤマメを釣ってはいたが、より大きなマスやサケを釣るのは今回が初めてだった。

 潔は念入りに準備した。

 礼文磯には竹がない。普段イワナなどを釣るために使っていたのは柳の木の枝で作った竿だが、ある程度はしなっても、大きな力がかかるとポキッと折れてしまう。より大きなマスやサケを釣る竿としては強度が足りなかった。

 仕方がないので、太さ10センチもあるような松の木に、かんなをかけて竿にした。吉五郎の道具をこっそり持ってきては、よく刃が手入れされたかんなを松の枝にかけていく。そしてこっそり返す、そんな日が続いた。

 長さ3メートルほどの松の木に、1週間ほど毎日かんなをかけたら、太さ5センチぐらいまで細くなってきて何となく竿っぽくなってきた。

 その代わり、かんなの刃がボロボロになってしまい、見つけた吉五郎から大目玉を食らった。

 竿ができたら今度は鉄の棒と針金で仕掛けを作り、竿に取り付ける。

 まず50センチぐらいの鉄の細い棒を叩いて曲げる。これが釣り針となって魚を引っ掛けるのだが、それを竿にそのまま固定するのではない。鉄の釣り針と松の竿を重ねずに、最も太い針金でグルグル巻きにしてつなげるのだ。

 川では、流れに直角に竿を浮かせて動かしながら、上ってくる魚にタイミングが合うと、竿をぐっと引いて腹に鉄の釣り針を突き刺す。引っかかって魚が暴れると、針金が曲がることで釣り針も曲がり、いくら魚が暴れても抜けないような仕掛けになっていた。

 当日、潔は重い「釣竿」を担ぎ、伸義や克義の乗る馬についてオネベツ川に向かった。自作の釣竿で初めてマス釣りに挑戦するのだ。7キロや8キロ歩いても疲れなかった。

 オネベツ川に着いた。

 潔は途方に暮れた。

 川幅が20メートルもある。流れも強い。川に入って魚を取ろうにも、小学校4年生の体格では川の中に立つのは無理で、竿を操るなどとてもできそうになかった。

 「これじゃあダメだ」

 潔は上流に行き、川が別れ、細くなった支流に場所を移した。ここなら流れも緩く、川に立って竿も使える。

 腰の下まで水に浸かり、竿を水に浮かせながら川の流れに合わせてゆっくりと動かした。水は冷たいが全然気にならない。水面を眺めていると、時折キラッキラッと光るものが見える。遡上してきたマスの背びれだ。

 背びれのやや上流側、ちょうどエラのあるあたりに狙いをつけて、グイッと竿を引いた。刺さったような鈍い手応えがあり、その後でバタバタと魚が暴れる感触が伝わって来る。

 潔はドキドキしながら竿を持ち上げた。先に40センチほどの太った魚がかかっている。えいやっと真上に上げて、竿ごと岸の草むらに倒した。仕掛けは完璧、立派なマスだった。

 「やった、釣ったよ」

 潔はエラをつかんで、伸義のところに走って行った。

 「おう、うまいぞ」

 伸義が褒めていると、川の向こうから何か真っ黒な雲のようなものがこちらにやってきた。

 「あっ、潔、逃げろ」

 伸義が叫んだが間に合わない。潔と伸義は、黒雲に包まれた。

 大きな蚊の大群だった。

 潔は長袖シャツとズボンは履いていたが、頭や顔は全くの無防備で、おまけに坊主頭だった。手で払ったがほとんど意味がない。何百匹という蚊に頭から顔から一面刺された。蚊は数分で別のところに飛んで行った。

 黒雲が去って、潔は伸義を見た。

 伸義は用意よく、毛糸の目出し帽をかぶっていて何ともなかった。そして、潔を見て笑っている。

 潔も笑いながら、かゆいなと思ってちょっと顔を掻いた。すると手にべっとり血が付き、顔中が血だらけになった。

 さらにしばらくすると顔も頭もぶくぶくと腫れてきた。顔がぼーっとなり、まぶたも腫れて前があまり見えなくなってきた。

 「こりゃやばいな。帰ろう」

 伸義が言った。

 帰りは伸義の馬の後ろに乗せてもらって帰ったが、途中まで来たらまぶたがふさがって、全然見えなくなった。

 「どうしたんだい」

 家に着くと、潔の顔を見たはなが驚いて布団に寝かせる。

 身体がボーボー燃えているように熱く感じる。顔だけでなく、全身がかゆくて、掻けば蕁麻疹のようにぼろぼろと赤くなった。

 「今日は本家に獣医が来ているはずだ。呼んで来い」

 吉五郎が言うと、誰かが走って獣医を連れてきた。

 「毒が身体に入ったからだ。しょっぱい塩水を飲ませて毒を流せばいい」

 獣医は潔を診て言った。

 はなが塩を溶かせるだけ溶かして塩辛い水を作った。潔はそれをコップで2杯飲まされた。するとすぐ、胃の中のものを吐きだした。次に下痢が始まった。

 それが1週間ほど続き、潔はほとんど食べ物も口にできず過ごしたが、それが過ぎると顔の腫れや体の赤みも消え、すっかり元気になった。

 しばらくしてまた釣りに行くと、もう免疫が出来たのか、蚊に刺されても腫れなくなっていた。

 潔のマス釣りはたちまち上達した。川の流れを見ながら捕まえるのは誰よりも上手くなった。小屋の天井には、冬を越すために干されたサケやマスがズラリと並んだ。

 食料としてだけではない。オスのサケの白子を煮て油を取り、それが夜の照明用になった。皿に油を取って脱脂綿を入れ、その先を細くして火をつける。居間に二つ、他の部屋に灯す時には一つ。節約しながら使った。

 礼文磯の人々は、ソ連軍の脅しを受け北海道に逃げるのを一旦は断念した。しかし、諦めきれない人たちは、その後でも脱出を試みた。留夜別村だけでも11月以降、記録に残っているだけで500人以上が脱出に成功して根室港に辿り着いている。その中には礼文磯や隣のチフンベツからの人も100人近くいた。

 終戦時には2500人ほどいた留夜別村の人口は、年の暮れにはおそらく600人弱まで減ってしまったとされる。集落には空き家があちこちにできた。

 次々と近所の人が脱出していく中、吉五郎も手をこまねいていたわけではなかった。

 まだ、頼みの綱があった。

 親戚である真木吉太郎の蟹工船だ。

 吉太郎は度々礼文磯の人を乗せ、根室に運んでいた。

 「今年最後の仕事で、お前たちを運んでやるからな」

 腹巻きにいつも札束をたくさん入れて歩く豪傑だった吉太郎は、吉五郎にもそう約束していた。

 ところが12月中旬、風の便りに思わぬ知らせが届いた。

 吉太郎の船が、根室港に到着直前、転覆したのだという。6人乗っていて1人が港に泳ぎ着いたが、吉太郎は帰らぬ人となったということだった。

 みんな呆然とした。

 ついに、礼文磯に取り残されてしまうことが確定したのだった。

 近所では、喜充の本川家、正策の佐藤家とも、島に残された。真木本家も脱出できなかった。

 本川家ではもっと西に住んでいる親戚の一家が脱出する時に一人だけ乗せられることになり、喜充の姉だけ乗せてもらい、先に北海道に逃がした。

 「北海道に今逃げても、すぐ冬だ。春になって暖かくなってからまた考えよう」

 喜充の父・豊三郎はそう家族に話した。

 また、島ではまだ噂が流れていた。これから本当に占領に来るのは本土と同じ米軍だ、というのだ。

 「そうなれば、全部捨てて北海道に逃げることもないだろうさ」

 逃げられなくなった人たちは、そんな噂を心の支えにしていた。

 ▼第3章抑留 2「オロージャ」に続く

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