この船、高倉山丸だった!

函館引揚援護局史(函館引揚援護局史係編、1950年2月発行)の冒頭には、十ページほどにわたって関係の写真が掲載されています。 上の写真もその中の一コマ。「国旗は埠頭に翻る−感激の上陸−」というキャプションだけで、それ以上...

上陸の地、函館1 西埠頭と検疫所

久々に投稿します。 今年、2019年5月31日から6月2日まで、2泊3日で北海道・函館市を訪れました。 国後などからの引き揚げ者が、樺太・真岡を経由して日本に来た時、上陸した地が函館です。ですがこれまで訪れたことがなく、...

3 みんなで働く

 1948年(昭和23年)9月26日。  岩手県戸田村に引き揚げてきた翌朝、目を覚ました澄子たちはびっくりした。  赤、黄、白、ピンク、藤色、紫…  外に出てみると、家の周りや隣の畑が、色とりどりの満開の花で溢れているの...

2 根室か戸田か

 潔は後で知ったが、国後から引き揚げ直後、つまり1948年(昭和23年)9月の吉五郎一家には大問題が持ち上がっていた。  函館に着いたはいいが、さて、ここからどちらに向かうのか。北海道・根室か、岩手県・戸田村(現在の九戸...

1 真岡収容所

 国後・留夜別村からの最後の引き揚げ者などを乗せたソ連の貨物船・レニングラード号は、1948年(昭和23年)8月29日午後2時過ぎに国後沖を発ち、国後島と択捉島の間の国後水道を北上、樺太・真岡に向かった。  国後島の南岸...

11 レニングラード号

 1948年(昭和23年)8月28日、小学校や寺、個人宅に分かれていた人たちが全員、船着場に集められた。  とは言っても総勢で250人程度だ。  午後4時ごろからソ連の貨物船への乗船が始まった。曇っているが雨は降っていな...

10 最後の宴

 1948年(昭和28年)8月20日すぎ。  日本とソ連との調整も整ったようで、月末には引き揚げの船が来ることが伝えられた。  7月末に集められてから3週間。少々弛緩した空気が漂っていた国後島・留夜別村の乳呑路は、再び高...

9 連行

 1948年(昭和23年)8月、引揚命令直後の騒ぎも落ち着き、乳呑路・孝徳寺での生活にも慣れてくると、子どもたちはだんだんと暇を持て余すようになった。  潔、喜充、正策、そして尚武の4人は、しばらくは寺の境内や乳呑路国民...

8 強制引揚命令

 1948年(昭和23年)7月30日。  朝、上の兄3人はいつものようにノツカの製材工場に出勤した。曇ってはいたが暑い日で、気温は午前中に20度を超えた。  ハレは食器洗いや洗濯など、朝の仕事をしていた。  しばらくする...

7 異国の人

   1947年(昭和22年)秋から48年にかけては、真木家にとって商売繁盛の時になった。  夏、家の前の浜全部でジャガイモを栽培したのだ。  そしてそれが大収穫となった。

6 特製ベスト

 礼文磯にソ連の民間人が入ってきたのは、1947年(昭和22年)になってからだった。  礼文磯の西の外れ、墓地に通じる道の辺りに、戦後すぐ北海道に逃げた家が数軒あった。その空き家に、いくつかの家族が住みついた。その後次第...

5 釣りと狩り

 1946年(昭和21年)、舟が焼かれた礼文磯では海に出ることができなくなったため、魚は川で釣るか、磯で取るしかなくなった。  秋、サケやマスを獲る季節の前に、潔たち3人組はしっかりとした竿を作ることにした。  「おいヨ...

4 ジャガイモ畑

 1946年(昭和21年)5月、畑仕事が始まった。  昆布漁がなくなり、ソ連の命令で舟も焼かれた今、家族の主な仕事は農作業になった。  裏の野菜畑、1段上がった所のジャガイモ畑を耕し、昨年と同様のものを植え、種をまいた。...

3 舟を焼かれる

   真木一家が住む新田家の裏は、10メートルほどの崖になっていた。冬になるとそこに雪が積もり、1月が終わるころにはそれがカチカチに凍って天然のスロープになった。  1946年(昭和21年)2月中旬のある日、ハ...

2 オロージャ

 近くに住んではいなかったが、礼文磯にはその後も、ソ連の軍人が食べ物が欲しいといってやって来ることがあった。  礼文磯にくるロシア人たちは悪いことはしなかった。5人、10人など集団で来るようになり、そのうち住民たちも怖が...

1 マス釣り

 真木吉五郎の一家は、1945年(昭和20年)の冬を礼文磯で越すことを覚悟しなければならなくなった。  しかしこの年は、例年にも増して冬への備えが貧弱だった。  いつもなら、夏の間必死で採った昆布を売り、その代金で米や味...

9 涙のぼたもち

 礼文磯では、1945年(昭和20年)8月15日の終戦を、ほとんどの家がそこで迎えたが、占領前に北海道に脱出した家もあった。  例えば2軒隣の矢野家だ。  矢野家では北海道側の泊村に親戚がいたため、礼文磯の家を捨ててみん...

8 上陸

 東京の空には灰色の雲が垂れ込めていた。風はなく、海は静かだった。  1945年9月2日、朝9時。東京湾の米艦ミズーリ上で、降伏文書の調印式が行われた。  降伏文書に外相ら日本側が調印したのは9時4分。連合国側はマッカー...

7 センソウ、マケ

 1945年(昭和20年)8月15日。  国後も晴れていた。暑くはなく爽やかな天気だった。  お昼になる直前、潔は1人、夏休みの学校に向かった。  どこからか「正午から重大な放送があるから、学校に集まるように」との話を聞...

5 先生の出征

 1945年(昭和20年)が明け、1月末に礼文磯国民学校の先生が一人減った。  19歳の新田三郎先生が、出征したのだ。  新田先生は、幼いころに一家で礼文磯に越してきて、本人も礼文磯国民学校の卒業生だった。根室の中学に進...

2 命

 「カッカ、腹痛い」  1944年(昭和19年)5月に入ってすぐの日の朝、飯を食べた潔ははなに訴えた。  お腹がグーグー鳴り、下の方がつねられたように痛い。  「便所行ってみろ」  便所でしゃがむと下痢が出た。  潔が教...