上陸の地、函館1 西埠頭と検疫所

函館山から見た市内臨海部=2019年6月2日

久々に投稿します。

今年、2019年5月31日から6月2日まで、2泊3日で北海道・函館市を訪れました。

国後などからの引き揚げ者が、樺太・真岡を経由して日本に来た時、上陸した地が函館です。ですがこれまで訪れたことがなく、「Tiatiaの子」も函館に関しては資料と父や伯母の証言だけに頼って書いたものでした。

今回やっと行くことができたので、ここにまとめて記録したいと思います。

今回の目的は、引き揚げに縁のある場所を辿るというものです。そのため、事前に調べて行きました。メインの資料は「函館引揚援護局史」(1950年2月刊)です。

函館引揚援護局関係施設鳥瞰図=函館引揚援護局史より

この鳥瞰図と他の資料を参考に、主に4カ所を訪れました。

1 引き揚げ者が上陸した「埠頭上陸所」があった場所

2 引き揚げ者がお世話になった「検疫所」

3 祖父たちが一時的に収容された(と思われる)「千代ケ台援護寮」があった場所

4 岩手に帰郷する際に利用した青函連絡船の函館桟橋

です。

■1 「埠頭上陸所」があった場所=西埠頭

祖父たちの乗った引き揚げ船「高倉山丸」は、1948年(昭和23年)9月17日に函館港に入港しました。その後船に3日間留め置かれ、上陸したのが9月20日のことです。

引き揚げの経緯については、「千島教育回想録」(1977年6月、千島教育回想録刊行会)に収められている「敗戦・進駐・引揚」という佐々木隼男さんの記録に拠っています。父たちと面識はないのですが、偶然同じ時に同じルートで引き揚げており、詳しい経緯はこれから分かります。高倉山丸が9月17日に函館港に入港したことは、この記録や函館引揚援護局史、当時の函館新聞にも記載がありました。しかし、人々が上陸したのが20日で、その後千代ケ台援護寮に入ったということは、この「敗戦・進駐・引揚」からしか分かりません。

ところが、その「敗戦・進駐・引揚」にも、その函館港のどこに上陸したのかは書いておらず、私も詳しくは調べていませんでした。そこで今回「函館引揚援護局史」を読んだら、ありました。「埠頭上陸所」という記載です。

上のイラストの中央下の日の丸が描かれてあるところが「埠頭上陸所」ですが、これでは正確に現在のどこだったのか、分かりません。さらに読み進めて行くと、ありました。これによって、上陸が現在の「西埠頭」だと分かりました。

「函館引揚援護局史」より

写真の赤丸のところです。

当時はこんな感じでした。

埠頭引揚所脇に接岸した引揚船「徳壽丸」=函館引揚援護局史より
西埠頭にあった埠頭上陸所=函館引揚援護局史より
函館港西埠頭

訪れた6月2日は貨物船が接岸していました。

この埠頭は大正14年の地図にはないものの、昭和11年の地図にはすでに現在とほぼ同じ大きさで描き込まれています。

伯母は上陸の時、多くの人が旗を振ったりして大歓迎してくれたと話していました。「やっぱり日本はいいなと思った」と当時のことを語ってくれました。

その時はすぐに「いやいや、国後も日本だから」と突っ込まれていましたが。

■2 引き揚げ者がお世話になった「検疫所」

もう一つ、上陸する時お世話になるのに「検疫」があります。

上の鳥瞰図の右下に、「検疫所」とあります。そして、この検疫所は今でも当時の建物が一部残っていました。

これです。

「函館検疫所 台町措置場」という表札が掲げられていますが、今は検疫所ではありません。ここは函館観光では有名な喫茶店にリノベされています。「ティーショップ夕日」と言います。座席からは西の海を臨むことができるので夕方来ると夕日がきれいだと思います。

中にはこんな看板ももありました。

私も海を眺めながら、ほうじ茶と団子のセットをいただきました。