3 みんなで働く

 1948年(昭和23年)9月26日。

 岩手県戸田村に引き揚げてきた翌朝、目を覚ました澄子たちはびっくりした。

 赤、黄、白、ピンク、藤色、紫…

 外に出てみると、家の周りや隣の畑が、色とりどりの満開の花で溢れているのだった。

 「カッカ、カッカ、花、花」

 はなに教えに家に駆け込むと、それを聞いていた金松が笑顔を向けた。

 「それはな、ダリアって言うんだよ」

 金松は専業農家だが、ただの農家ではなかった。

 春は養蚕、夏は畑、秋はダリアの球根、冬は竹や木の皮で編んだザルやかご。ただ栽培したり自分で作ったりするだけではない。かごなどは近所の農家にまとめて発注し、市の立つ近隣の町村に持ち込んで直接売るという、なかなかのやり手だった。

 家族はその金松の家に間借りすることになった。家の隣に大きな作業小屋があるが、農繁期であり、まだ借りることはできない。しばらくは座敷に居候だ。

 いきなり11人で転がり込んだのだ。所持金もほとんどない吉五郎一家が食べていくには、みんなで手分けして農作業を手伝っては、食べものを分けてもらうしかなかった。夫婦と年長の子どもたちは、翌日からつてを頼って働き始めた。

 また、役場に引き揚げ者であることを届け出た。村からは米や味噌だけでなく、布団や鍋も配給してもらえた。子どもが多かったこともあり、生活保護も受けることになった。

 3日ほどして潔は、吉五郎に呼ばれた。

 「お前は明日から、文治郎の所に行け」

 山中文治郎は吉五郎兄弟の2番目の兄で、家は晴間沢よりもさらに山奥の長倉にあった。

 急な斜面に家はあり、周りの山を切り開いた少しの畑と牧草地があった。そこに文治郎、文治郎の娘、文治郎の養子に嫁いだタエ、タエの子ども3人の計6人で暮らしていた。タエの夫は戦死、文治郎の妻も亡くなっていた。

 文治郎の娘・ハナヨは遅くに生まれたため、年齢では潔の一つ上で戸田中学校2年生、タエの長男・武が潔の1つ下で戸田小学校六年生だった。

 潔は文治郎宅に住み込みで、農作業の手伝いをして食べさせてもらうことになった。

 稗を刈った後の畑に麦をまき、冬の馬用の草刈り、打ち、大豆や小豆、ごまの収穫など11月末まで続いた。雪が降り始めると、大根、人参、蕪などを掘った。保存用に土に埋めるとともに、大根はたくあんや漬けものにした。

 寒くなってくると冬の準備に入る。山では春に薪用の木を切り、そこに積んで乾燥させておく。最初は細い枝などを束ねて背負って運び出すが、雪が降ってそりが使えるようになると、太い木も運んでくる。

 ジャガイモを作ったり、毎日薪用の木をノコギリで切ったりするなど、国後で働いていたため、潔はすぐ作業に慣れた。

 食事は朝は稗飯と煮てつぶした蕪をそば粉と混ぜたもの、干した菜っ葉のみそ汁、漬け物など。夜はすいとんやそばかっけ。

 質素な食事だが、これは別に文治郎の家だけでなく、当時の岩手の山村ではごく普通のものだった。年間を通じて魚を食べることができた国後に比べると、肉になる食べ物の量は少なかった。

 潔は戸田でも川魚を釣りに行ってみた。しかし、1時間釣っても小さいのが数匹釣れるか釣れないか。大の釣り好きだった潔だが、何度か川に行ったあとは、もうほとんどしなくなった。

 潔は食事を、文治郎一家と一緒に食べた。夜は文治郎の横に布団を敷き、寒い時は文治郎に寄り添って寝た。

 長倉は晴間沢よりも山奥だったが、金松宅よりも早く、もうこの時分には電気が通っていた。夜は九時ぐらいになると停電してしまうことが多かったものの、学校に通っているハナヨや武は、電気の灯りの下、テーブルで勉強していた。

 学校に行っていない潔は、2人が読み上げるのを黙って聞いていた。

 小学校4年生の夏に国後島がソ連に占領された後、潔の通っていた礼文磯国民学校は授業がなくなった。当然小学校を卒業していない。引き揚げてきて本来なら中学1年に編入されるべきだが、食っていくために吉五郎が許さなかった。潔自身も3年も学校から遠ざかっていると、何が何でも学校に通いたいとも思わないのだった。ただ2人の読む内容はそれほど難しくはないと思った。

 晴間沢では、ハマ子が戸田小学校2年生に編入した。

 本来は3年生の年齢だが、国後で小学校には一度も行っておらず1年下の学年になった。ハマ子は毎日約3キロの道を1時間歩いて登校し始めた。7歳の澄子も本来は1年生に編入されるべきだったが、1年遅れて翌年の春から小学校に入学させることになった。

 ハレは本来なら中学3年生だが、当然吉五郎は認めなかった。ハレは終戦時が国民学校6年生で、8月以降学校がなくなり、さらに3年抑留されていたため、結局小学校も中学校も卒業できないことになった。

 吉五郎・はな、そして年長の兄弟とハレは、毎日近所の農作業を手伝っては食べさせてもらっていた。

 秋の農作業が終わった11月、晴間沢では隣の作業小屋に住むことができるようになった。農具を寄せると板敷きの24畳ほどの広さが取れた。そこに薪ストーブと掘りごたつを付け、炊事も小屋の中で行うようになった。夜は石を灰に入れておき、布を巻いて布団の中に入れて暖をとった。

 農繁期が終わると手伝いの先がなくなり、たちまち食うのに困ってしまう。そこで年長の兄弟3人は、晴間沢から5キロほど離れた所にある木材業者に住み込みで働くことになった。良雄はそこの主人に、もっと大きな商売をしてみたい、という話をしたらしい。その希望はすぐにかなえられ、良雄は隣の葛巻町にある大きな材木工場で、住み込みで経理の仕事をすることになった。

 ハレはこの頃から、裁縫や編み物の注文を受けるようになった。

 最初は近所の親戚の家からだった。

 「うちで何か作ってくれないかね」

 生活に困っている一家を助けようと、裁縫ができるというハレに注文をしたのだった。

 ハレはその家に行った。そこのおばさんが、押入れから何やら引っ張り出してきた。やや青みがかった茶褐色の上着。しまったままになっていた陸軍の軍服だった。

 「これ、子どもに着せられるかな?」

 まだ15歳になったばかりの、それも北の島から着の身着のまま引き揚げてきた娘に頼むのだ。期待していないのがハレにもよく分かった。ハレは軍服を手に取り表裏をよく見た。触るのも初めてだった。

 「上手くできるか分からないけど、やってみますわ」

 ハレはその家で作業を始めた。子どもの体格を確認し、袖などのパーツを一旦全部外す。それぞれを小さくして、再度縫い合わせる。食事はその家で食べさせてもらう。部屋を1つ借り、ランプを灯して夜遅くまで縫った。翌日も朝食を食べさせてもらい仕事を続ける。軍服のリフォームは昼過ぎに終わった。

 「あらまあ、すごいこと」

 仕上りは見違えるようなものだった。子どもは喜んで着て飛び跳ねている。驚いたおばさんはさらに何枚かのリフォームを頼み、ハレは結局1週間ほどいて、全部の仕事をした。

 「ありがとうね。これ、もってって」

 ハレは帰る時に袋に入った麦や豆をもらった。

 1週間ぶりに帰る道。足取りは軽い。誰にも教えられず、自分だけで工夫して覚えた裁縫が役に立った。人に喜ばれたただけでなく、報酬ももらえるのだ。

 ハレのもとには注文が舞い込むようになった。

 別の家には2週間ほどいた。今度は編み物だ。その家には、配給でもらってはいたがどうにもできなかった毛糸がたくさんあった。ハレは毎日編棒を動かし続けた。食事と寝る時間以外は部屋にこもって働き続ける。子ども数人のための靴下を10足ほど編んだ。

 そしてもらった豆を1袋、リュックに入れて帰った。

 1948年から49年にかけての冬、ハレはこうして戸田のあちこちに呼ばれては、2週間、3週間と泊まり込んで裁縫や編み物をし、食べさせてもらい、食べ物をもらって帰った。

 働ける者はそれぞれ働き始め、一家は厳しい中でも何とか生活して行けそうに思えた。

▼第4章 岩手の4「吐血」に続く

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