意外に大きかったぞ引き揚げ船「高倉山丸」

高倉山丸=三井船舶株式会社創業八十年史(1958年9月発行)より

上の船が1948年9月、国後からの最後の引き揚げ者らを樺太・真岡から函館に運び、Tiatiaの子にも登場した「高倉山丸」です。

この高倉山丸について詳しく調べたのでまとめておきます。

函館引揚援護局史によると、高倉山丸は1947年(昭和22年)4月から12月の「第3次引き揚げ」と、1948年(昭和23年)5月から12月の「第4次引き揚げ」で計16回、引き揚げ者の輸送に使われました。ですから、私の親族以外の引き揚げ者の思い出話にも何度か名前が出てきます。

ところが、話に出てくる時に一致しているのが「小さくて古い船だった」ということでした。少ない人で総トン数400トンからせいぜい700トンぐらいまでが相場です。父もやはり同じような印象を語っていました。

しかし、実際の高倉山丸は総トン数1825ないし1826トンというのが正確な数字です。引き揚げ者の印象の倍以上の大きさでした。

なぜそうなったのか。想像するに、各地から樺太・真岡に運ばれた際のソ連の貨物船がとても大きく、それとの比較で実際以上に小さく感じられた、ということだと思います。

引き揚げ者を函館に運んだ引き揚げ船は全部で20隻ですが、総トン数で見ると高倉山丸(1826トン)は下から5番目の小ささです。でも最も小さい「會寧丸」でも1016トンです。

ともかく、「函館引揚援護局史」「船舶史稿資料編 輸入船船舶史 第3巻 大正期・外地籍編」(船舶史稿編纂チーム、2016年2月発行)、「三井船舶株式会社創業八十年史」(三井船舶株式会社、1958年9月発行)を基に、高倉山丸の詳しいプロフィールを紹介します。

高倉山丸は鋼製貨客船で、総トン数1826トン、長さ(LPP)81.11m、幅11.41m、深さ6.40mとなっています。最初から乗客を乗せることを目的に作られた船です。収容人員は1350人となっていましたが、引き揚げ時には、畳に隙間なく人を敷き詰めて1500人を超える人を乗せて帰ってきました。

この船はドイツで建造された船で、竣工が1906年(明治39年)とかなり古いものです。

最初の名前は「LANDRAT SCHIFF」でしたが、海外で2度ほど売却されて名前が変わった後、1935年(昭和10年)に神戸の嶋谷汽船に売却され、ここで「大成丸」という名前になりました。

1943年(昭和18年)、嶋谷汽船は三井船舶(東京)に吸収合併され、大成丸も三井船舶に移籍となります。そして1944年(昭和19年)1月に「高倉山丸」に改名されました。

高倉山丸は同年10月、北千島方面で1人が亡くなりましたが船体には問題ありませんでした。しかし1945年(昭和20年)6月、石川県七尾湾口で機雷に触れ座礁して動けなくなってしまいます。そしてそのまま放置されて終戦を迎えました。

終戦時、三井船舶の保有する船はたった17隻。しかしそのうちの2隻は触雷(高倉山丸)と空爆(第七萬栄丸)で動けなくなり放置されていたものです。高倉山丸は、17隻の中で唯一の明治時代に建造された船でした。

船不足に悩む三井船舶はそんな高倉山丸でも修理をして動けるようにしました。高倉山丸は翌1946年(昭和21年)3月には浮揚に成功。そして1947年(昭和22年)5月12日には、初めて引揚者1351人を乗せ函館港に入港しています。写真の船腹に白い十字が描かれていますが、これは引き揚げ船であることを示しています。

こうして現役復帰した高倉山丸は、前述した通り1948年までに16回、函館と真岡間を往復しました。入港日と運んだ人数を示します。

入港日運んだ人数
1947年5月12日1351人
1947年5月23日1531人
1947年6月8日1268人
1947年6月23日1303人
1947年7月8日1501人
1947年7月24日632人
1947年8月22日1428人
1947年9月19日1574人
1947年11月22日1673人
第3次計9回、12261人
1948年5月13日1555人
1948年5月29日1771人
1948年6月25日1517人
19487月25日1509人
1948年8月21日1506人
1948年9月17日1520人
1948年11月20日1508人
第4次計7回、10886人
高倉山丸計16回、計23147人

そして2年後の1950年12月、低性能船買入法により、高倉山丸は船籍抹消、売却されて解体されました。

なお、三井船舶株式会社創業八十年史によると、祖父母や父の一家が引き揚げてきた1948年9月の航海時、高倉山丸の乗組員は、船長・中島良策氏、機関長・波多野進二氏と記録が残っています。

1948年9月の引き揚げは、函館引揚援護局史に「当月は終始悪天候に禍されて遅発、難航、延着などを繰り返し、意想外の困難をともなった」と記述され、本人たちも語っている通り、荒れる海の中での航海でした。この方々、および船員の方々の努力に深く感謝せずにはいられません。