11 春

 1943年(昭和18年)4月。雪も流氷もまだあるが、礼文磯国民学校も新学期が始まった。潔は2年に、ハレは4年に、伸義は高等科の2年に、それぞれ進級した。

 しかし6年生の克義は6年生のままだった。初等科の中では飛び級はあるが、高等科に進むには年齢の制限があったからだ。

 「これじゃあまるで、オレが落第したみたいじゃないか」

 ブツブツ言いながらもそこは優等生の克義だ。力を抜くことなく元気に通っていた。

 4年生になったハレは、以前から楽しみにしていたことがあった。

 家庭科の授業が始まるのだ。

 ハレは裁縫と編み物が大好きだった。

 それも誰かから教わったのではない。はなは和裁はできたが、毎日の仕事が忙しく、ほとんどすることはなかった。

 教えてくれる人もいないので、ハレは初等科に入った頃から、自分だけで少しずつ覚えていった。

 周りの人が着ているものをよく見ては、後で自分で縫ったり編んだりして試した。家にある服で着なくなったものを解き、縫い直してみた。初等科3年のこのころになると、もうかなりのことができるようになっていて、はなが取ってある端切れの布を勝手に持ち出し、自分や妹たちのスカートを縫い、はなから怒られることもあった。

 もっと本格的に縫ったり編んだりしてみたい。

 ハレは、先生から新しいことを習えるのがとても楽しみだった。

 ところが始まってみると、全然違った。

 裁縫も編みものも、習うこと習うこと全部知っていることだった。

 ハレはまた、学校に友だちが着てくる服やセーターの柄などをよく見ては、少しずつ自分でやってみて覚えることにした。

 4月のある朝、潔が外に出ると、頬に海からの暖かい南風が当たった。

 水平線を見ると、流氷が右から左に少しずつ動いている。

 「トッチャ、氷が動き出したよ」

 潔は窓越しに、ストーブ横で朝飯を食べている吉五郎に叫んだ。

 浜を覆い1枚の硬い板となっていた氷も、3月になると少しずつ融けてきて、流氷が押し寄せた時のように氷の塊の群れに戻っていた。しかし、北風が優勢のうちは氷が消えることはない。流氷は融けて消えるのではなく、春が来て風向きが南からの風に変わると、その風に運ばれて北へ北へ帰っていくのだ。

 「そうか。夕方にはもうなくなるだろうよ」

 吉五郎の言葉通り、礼文磯の浜を埋め尽くしていた流氷は、沖の方から東に、そして北に向かって流れていき、徐々に浜から離れていった。そして夕方にはもう、ほとんど氷はなくなり、すべて沖の白い列に合流して続々と東の方向に去っていった。

 オウオウオウオウオウ

 大きなトドも鳴きながら氷に乗って通り過ぎていった。

 南風が吹いてくると、陸も一気に春になる。

 浜に近い、人家のあるあたりでは、谷を埋めるほど積もっていた雪も3日ほどで全部融けてしまった。

 真木家のある辺りは砂浜なのでいいが、土のところは大変だ。大量の雪が融けて一面泥だらけだ。すこし低いところは沼のようになる。場所によっては浜沿いの1本道もぬかるんで、歩いて行くのも大変になった。

 数日後、本家の使用人が知らせにきた。

 「馬が死んだぞ」

 それを聞いたはなは鍋を1つ持って駆けて行った。

 しばらくして帰ってきたはなの持っている鍋を見て、潔たちは歓声をあげた。中には馬肉の大きな塊が入っていた。

 家々の立つ浜から1段上の台地は開墾した畑や牧草地になっているが、その辺りでは所々に沼のようになったところがあった。

 見た目は真っ黒で表面は土と変わらない。ただ、「沼」の周囲にはいち早く青草が生えてくるので見分けることができた。

 ところが、馬はその青草が食べたくて近づいてしまう。

 礼文磯では、乗用の馬以外は冬の間も野放しにしている。馬たちは雪の積もらない森の中にいて、笹などを食べて冬を越していた。

 しかし食べるものがふんだんにあるわけではなく、春を迎えた時の馬は、当然痩せて青草に飢えている。山全体が新緑に染まるのは5月以降だ。おいしそうな青草が目に入ると、思慮のない馬は簡単に泥にはまってしまうのだった。

 泥にはまった馬が見つかると、持ち主は駆けつけなんとか引きずりだそうとする。時には自ら泥の中に入り、馬の首に縄をかけて引っ張り上げようともするが、毎年数頭は必ず自分の重みで沈み、死んでしまうのだった。

 さらには冬眠から覚めた熊に襲われてしまう馬もいる。熊は内臓だけ食べてあとは放置するのだった。

 死んだ馬が見つかったり沼から死んだ馬を引き上げると、男たちは皮をきれいに剥がし、解体して肉を近所に分ける。真木家もその配分に与ったというわけだった。

 その日の晩御飯は、馬肉と野菜たっぷりのけんちん汁だ。ジャガイモ、キャベツ、人参、ごぼうなど野菜をふんだんに入れて、味噌で味をつける。

 正月以来のごちそうだ。みんなお代わりをした。

 馬肉は、味噌に入れて味噌漬けにし、後から焼いて食べるという食べ方もあるが、人数の多い真木家ではほとんどの場合、すぐ食べてしまうのだった。

 山に青草が出てくると、山菜も出始める。1番最初は片栗だ。緑の葉に暗紫の模様、薄紫の花が1輪。一斉に芽を出し花を咲かせる。葉っぱも食べるが根がほくほくと芋のようにおいしい。

 次にギョウジャニンニク。葉からニンニクのような強い臭いがするが、一面に群生しているところがあり、そこにいけばすぐニンニクの臭いがした。雪が融けて川が現れるとイワナやヤマメを釣ることができる。それらを焼いたのと一緒に煮付けにして食べた。さらに、コゴミ、ワラビ、ボウナ、ヨモギ、ワサビなど。フキも出てくるが、これは大人の背丈以上に大きくなった。

 ニラやネギなど、裏の畑に植えていたものも伸びてくるが、それは4月末以降のことだ。新しく植えた野菜が穫れるのも6月を過ぎてからで、それまでは季節の山菜が食卓を占めることになるのだった。

 「カモメが騒いでいる。何か浜に来ているんじゃないか」

 ある朝、伸義がが海の方を見て言った。

 「ちょっと見て来い」

 吉五郎に言われて潔がひとっ走り行ってみると、学校の川近くの浜の水が白く濁っていた。そしてそこにはたくさんのカモメが群れていた。

 「何だこれ」

 寄せてくる波に手を入れると、小さな魚が手の中でたくさん跳ねた。

 氷下魚(こまい)だった。

 大量の氷下魚が浜に押し寄せ、メスが生んだ黄色い卵に、オスが精子をかける。そのため浜の海水が白く泡立っていたのだった。

 潔は慌てて家に戻り、今度は伸義、克義と3人で浜に駆けて行った。銘々ザルと入れ物をもっている。

 波がくるとそれにザルを差し出すだけで、数十匹の氷下魚が入ってきた。持って来た入れ物はたちまちいっぱいになった。

 3人は小屋に戻った。ちょっと塩をかけて干物にする。しかし数百匹もあるとどうしようもない。干しきれず食べきれないものは、とうとう捨ててしまうことになった。

 流氷が去ると、潔や克義の日課である朝の刺し網がまた始まった。アブラメ、カツカ、カレイなどは季節に関わりなく獲れた。

 また、春は岸から1キロぐらいの沖合まで出て、鱈を釣ることがあった。昆布漁に使う舟で出て行くが、釣りの大好きな潔は、近所の大人たちに混じって釣った。80センチもある鱈を釣り上げるのは快感だった。

 5月のある日、克義と潔は朝から魚釣りに出かけた。

 干潮時、礼文磯の海は数百メートル沖まで歩いて行けるようになるが、学校の下の海だけはすぐ深くなっていて、干潮になっても数メートルの深さがあった。

 そこに大きな岩が3つほどあり、空いている穴から大きな魚が釣れることがあった。

 この日の2人には狙っている獲物があった。

 そこにいる大ヘビガジを釣り上げるのだ

 ヘビガジは頭はハゼのような形をしているが、体はヘビのように長い。白身で、種類は違うがウナギやアナゴのように煮たり蒲焼のようにしたりして食べる。美味しい魚だ。

 それだけではない。

 干潮になると、ヘビガジは水面上に現れた岩の穴から顔を出す。

 口を開けて、とぼけたような顔をしている。が、人が近寄るとさっと岩の中に入ってしまう。そんなことを繰り返すと、子どもたちは何かヘビガジにからかわれているような気分になるのだった。

 以前遊んでいる時、克義と潔はその穴から顔を覗かせたヘビガジが、他のヘビガジよりも2回りも大きなことに気づいた。

 「おい、今日はあれ、退治に行こうぜ」

 潮が引く午前9時ごろを見計らって、克義と潔はそのヘビガジを釣りに勇んで行ったのだった。

 柳の枝に数メートルの針金を付け、その先を針のように曲げたもので釣る。餌は近くで取ったツブ貝を石でつぶしたものだ。

 岩の上に上がり、それを上から穴の中に入れていく。克義と潔、交代で試した。

 「おお、来た」

 克義がやっている時、針に何かが引っかかった。

 引き上げようと枝を持ち上げる。

 しかし、ビクとも動かない。

 「あれ、岩にひっかかったかな」

 揺らすと生き物のような反応がある。何かかかっているのは確実だった。

 「カツあんちゃ、こっちに引っ張ったら?」

 潔が言い、今度は竿を取った。克義が引く方向と逆側に引っ張る。少し動くが引き上げることはできない。

 「向こうも踏ん張ってるんだ。負けるな」

 手がしびれるまで頑張って、交代する。これを2人で繰り返した。

 そのうち潮が満ちてきた。完全に満ちてしまうと岩は水面下になってしまう。時間との戦いだ。

 「あっ、動いた」

 潔が持っている竿を上げた。30センチほど上に上がった。バタバタと動く感触が手に伝わって来る。

 「今だ、それっ」

 克義の合図で2人で針金を引き上げた。

 ズボズボッ

 長さは1メートルもないが、ビール瓶ほどの太さもある大きなヘビガジが飛び出してきた。

 2人で慌ててそれを持ち、岩から浜に移った。ほどなくして岩は水の中に沈んだ。

 小屋に帰るともう昼だった。

 「オレたち、2時間もやってたのか」

 克義と潔は顔を見合わせて笑った。

 大ヘビガジはその夜、豪勢な蒲焼となって食卓に並んだ。

 「魚はな、水が来ると素直になるんだ。だから大物で動かない時にはな、頑張って潮が満ちてくるのを待つんだ。タコなんかでも同じだぞ」

 話を聞いた伸義が2人に教えてくれた。

 そして5月の中旬から下旬には、野や山で千島桜が一斉に咲いた。

 千島桜は大きくなってもせいぜい5メートルほどにしかならない。だから、満開の時は地面から上の木全体が花に包まれた感じになる。咲き始めの花はピンクや紅色だが、満開になると徐々に白い花になる。

 チフンベツの村道から老登山神社に上がる道の脇には大きな千島桜の木があった。通りかかった人たちは皆、足を止めて眺め入ったものだった。

▼第1章礼文磯 12「カッカを迎えに」に続く

▼連載第1回 プロローグ「さらば茶々山」へ

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