2 みんなの家

 2人を預けた後、みんなはもう一つ、大きな決断をしようとしていた。

 春以降の住処のことだ。

 戸田に残るのは克義、ハレ、潔、ハマ子、澄子、陽子の6人だが、3月には潔が中学を卒業し、4月には陽子が小学校に入学する。

 下の妹3人がみんな小学校に入ることでハレの手も空く。潔もどこかで働けるだろう。そうなれば、どこかに小屋を建てることも可能ではないか、というのだ。

 国後から引き揚げて2年半。親戚を渡り歩いているが、いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。働き手も増えるのだから、生活保護もそろそろ返上したいということもあった。

 「それなら、ちゃんとした家を建てよう。それも店を開いて現金を少しでも集めることを考えた方がいい」

 そう良雄が言い出し、克義も賛成した。その家にいて店を切り盛りするのは、誰もがハレだと思っていた。

 家の中にいて好きな裁縫したい。

 ハレ自身はそう思っていたが、兄たちに言うことはできなかった。

 山を下り、街道沿いにある戸田小学校近くの土地を買えるということになり、話はトントン拍子に進んだ。

 伸義が出稼ぎに出発するころには、設計を近くの大工さんに頼み、春から家を建て始めることが決まった。

 「カネは任せとけ。毎月仕送りしてやるからな。それに時々は根室で秀子の様子を見て来るよ」

 3月、伸義はそう言って釧路に旅立っていった。

 4月、建物の基礎にする栗の木を近所の人がくれるというので、雪が消えるとすぐ、山に取りに行った。潔と克義でリヤカーを引き、倒されていた栗の木を引っ張り出した。そこから本格的に作業が始まった。

 家は建坪60坪の木造平屋建て。通りに面した部分は簡単な店舗だ。

 伸義は本当に毎月仕送りをしてくれた。春はスケソウダラ、夏は昆布、秋はサケ・マス。1万2000円の為替が毎月きちんと送られてきた。

 現場の近くの戸田小学校には4月からハマ子・澄子・陽子の3人が通い始めた。

 妹たちがみんな学校に行ってくれるようになったため、ハレは毎日餅をつくり、長倉から戸田の現場まで背負って来た。隣の家の縁側を借りて、そこで大工たちに餅やみそ汁を出した。夕方長倉に帰ってくると、先に小学校から帰ってきた妹たちが腹を空かせて待っていた。

 両親が亡くなって以降、ハレは戸田に残った妹たちに、とても厳しくするようになった。

 「あそこの家では親が死んだらあのざまだ」

 などとは絶対言われたくない。自分が面倒を見る妹だけは、みんないい子に育てたいと思った。

 年の近い澄子と陽子はよく喧嘩をした。

 ハレはそれを見ると両方とも叩いた。何があったのか、どちらが悪いのか、話を聞くこともしない。

 「自分は悪いことしていないのに」

 澄子は抗議するが、陽子はすぐ泣いた。

 喧嘩して陽子が泣き出すと、澄子の方が怒られ叩かれることが多かった。

 姉はすぐ怒る、と妹たちはハレを嫌うようになったが、そんなことでハレはやめるようなことはしなかった。

 潔は3月に戸田中学校を卒業した。

 宮古の海員学校に進み、将来は船乗りになりたいと思っていたが、家の状況を考えるととても無理な話だった。

 家を建てるためにみんな働いている中、どうしようかと思っているところに、戸田の郵便局で臨時の職員として働かないか、という話があり、5月中旬から働き始めた。

 潔はハレが手縫いで仕立てた洋服を着て、郵便局に通った。

 当時の郵便局では、郵便の集配や貯金業務だけでなく、電話交換や電報の受発信・配達も行っていた。若い職員は夜泊まることが多く、潔も夕方一度長倉に戻っては、着替えてまた戸田に戻り、夜勤をすることが多くなった。夜勤明けの翌日も普通に働いた。

 戦時中の厳しい労働慣行を引きずった職場だ。

 「俺が若い頃は昼夜なく働いたものだ」

 先輩が戦時中のことを自慢し、そんな働き方がまだ当然とされる時代だった。

 6月下旬、潔は初めての月給袋をもらった。

 5月の半月分で、1830円。

 1000円札と500円札が1枚ずつ、100円札が3枚、10円玉が3枚。薄っぺらい紙封筒だが、15歳の潔にはとても重かった。

 午後5時半。仕事が終わると、近くの煎餅屋でゴマ入りの白い南部煎餅を買った。みんなへのお土産だ。

 長倉に向かって歩き出す。

 はなが入院していた診療所の横を通る。家が途切れ、山の中の道になる。

 途中で山の裏道に入る。いつもはなと歩いた道だ。そして潔は、いつもはなと休んだあの場所に1人腰を下ろした。煎餅の入った紙袋を横に置いた。

 はなが亡くなってから、ここに来たのは初めてだった。

 ポケットから給料袋を取り出し、じっと見つめ、煎餅の隣に置いた。

 真木はな

 潔は土に右手の人差し指で書いた。

 一度消してまた書いた。

 「きよし、きよし」

 カッカの少しかすれた声が聞こえる気がする。

 自然に涙があふれてきた。

 手が汚れているため流れるのに任せ、潔は土に母の名を消しては書いた。

 気づくと声が出ていた。こんなに泣けるのかと自分でも驚くほど泣けた。

 小一時間も経っただろうか。

 潔は空を見上げ、立ち上がった。

 月はまだ出ていない。晴れた空に星がまたたきはじめている。

 ズボンの土を払い、給料袋をポケットに入れた。土産の煎餅を持ち、背広の袖で涙をぬぐった。

 妹たちのいる小屋に向かって薄暗い小道を上っていった。

 潔は給料が出ると、袋ごとそのままハレに渡した。しかし、少しは小遣いも持てるようになった。

 郵便局は長倉の小屋から戸田小学校に通う道の途中にあり、小学校や新しい家の現場から4、500メートルほどしか離れていない。

 ある日のお昼時、潔は澄子が学校帰りに歩いてくるのを見つけた。

 「おい澄子、ちょっと待て」

 そう言うと、近くの煎餅屋で大きな渦巻きのかりんとうを2枚買ってやった。1枚5円だが、澄子は満面の笑みを浮かべている。

 別の日の午後には、陽子がやって来た。

 窓口に座っている潔を見つけると、堂々と入り口から入ってきて、ガラス越しにいる潔のところに行くと、爪先立ちして窓口の通帳やお金を出し入れする穴に右手を伸ばした。

 潔は5円玉を一つ、陽子の小さな手に握らせた。

 陽子はニコッと笑うと駆け足で出て行った。近くの店で1個1円のアメやガムを買い、一緒に帰る友達に自慢げにあげるのだった。

 礼文磯じゃカッカから5厘ずつもらって、姉と一緒にひょうたんぱんを買いに行ったものだったな。

 はなからしてもらったことを、今度は自分が妹にやれるようになったのが、潔はとても誇らしかった。

 家は8月の盆前に完成した。

 大した家財道具もないが、長倉からリヤカーで運び込み、6人で入居した。

 新しい家は、木造平屋で畳の部屋が4つ、小さな小屋のような便所が裏にある。表の通りに面して小さな店が設けられており、いくつか並んだ木枠にガラスのケースのなかに駄菓子などのお菓子を入れ、左右の棚には日用品や缶詰を置き、奥のガラス瓶には飴やキャンデーなどを入れた。

 吉五郎とはなの結婚から24年。一家が初めて自分たちで手にしたちゃんとした家だ。

 引き揚げ時からもらっていた生活保護は、この夏で返上した。

 12月、良雄が葛巻の同じ職場で働く遠藤マツと結婚した。2人は1カ月ほど戸田にいたが、年が明けると、葛巻に引っ越していった。

 また年末には、伸義が北海道の出稼ぎから帰って来た。

 「秀子は向こうでも利かん坊らしいよ」

 伸義は根室で会ってきた秀子の話をする。近所の同年代の子どもたちにも負けず、しょっちゅう喧嘩しているという。それでも夜はさびしいのか鉄造の布団に一緒に入って寝るのだという。

 「いや、俺が行くと嬉しそうにな、膝の上に乗るんだよ」

 伸義は自分の方が嬉しそうに言った。

 「秀子も春には1年生だ。もう鞄を買ってもらっててな、背負って歩いては見せびらかすんだ」

 そんなことをみんなに話しては、年明け2月ごろにはまた釧路に出稼ぎに向かった。

 ▼第6章1人じゃない3「青年団」に続く

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