8 九戸に生きる

 潔は結婚後、戸田の家を出て、宇堂口の繁子の実家で暮らし始めた。

 1年後の1959年(昭和34年)10月、長女が誕生した。

 「真木さん、うちの横に土地を買って家を建てないかね」

 義父の末吉から、潔はよく言われた。

 それは「盛岡に来ないか」という話が潔に持ち上がっていたからだった。

 青年団活動と並行して、潔は労働組合運動に熱心に取り組むようになっていた。

 所属する全逓信労働組合(全逓)は、国鉄労働組合(国労)や日本教職員組合(日教組)と並ぶ有数の労働組合で、組織もしっかりしていた。誰が声をかけたのか、そこの岩手県本部で数年間、執行委員として専従しないか、というのだった。

 任期が終われば帰ってくることもありうるが、さらに中央で働くこともある。

 人生の岐路に立っていた。

 ある日、職場で局長と話になった。

 「真木君、君は若くて頭もいいから、東北郵政局のような、もっと大きなところで働けばいいじゃないか」

 だから、こんなところで労働運動にのめりこむな、と言いたいのだった。

 職場にも地域にも、潔と同年代の仲間がいた。みんな初めて本格的に日本国憲法を習った世代だ。

 しかし今、みんな現実の壁にぶつかり始めていた。昔からの慣習を変えられず、地域でも職場でも「旦那さま」がまだ強かった。何かあれば集まって、相談したり愚痴を言い合ったりしていた。

 今ここを離れていいのか。本当にいいのか。

 潔は自問自答した。そして腹を固めた。

 ここから離れず生きていこう。

 ここから変えていこう。

 1960年(昭和35年)10月、潔と繁子は戸田に小さな家を構えた。伸義や妹たちが住む店からも離れ、はなが入院していた診療所から50メートルほどのところだった。

 さっそく自治会に入った。青年団と同じように、最初の総会で問題点を挙げ、規約を整備し、自ら会計を務めた。

 郵便局の組合活動も続け、局長と団体交渉を構えたりした。

 月給が1万円を超えたところで、朝日新聞を定期購読し始めた。

 世の中を見る目が広がってきた。

 そのうち、自分たち以上にひどい環境の中で働いている人たちがいることに気づくようになった。

 岩手県内では、ちょうど中小零細企業の組織化が進んでいた。潔は岩手県労働組合総連合(岩手県労連)の二戸地区委員長になり、九戸村にも支部を作った。

 その中で取り組んだのが、出稼ぎ者の組織化だった。

 耕地が少ないこの地域では、農業の傍、出稼ぎをするのが日常になっていた。高度成長期、いくらでも仕事があったが、給料を値切ったり、安全対策を取らずに危険な仕事をやらせたりするのも日常茶飯事だった。

 1968年(昭和43年)のある日、潔は隣の伊保内の集会に出かけた。

 20人ほどの出稼ぎに出たことのある人に話を聞き、労働組合の結成を呼び掛けるものだった。

 潔は事前に渡された名簿を見た。

 そこの中に1人の男の名前があった。

 「舘場三朗」

 はて、と思い、世話役に聞いた。

 「ああほら、あの崖渡に家がある、昔『崖のサブロー』と呼ばれていた男だよ」

 崖のサブローか。

 潔は身構えて集会場に行った。

 入ってみて驚いた。

 そこにいた舘場三朗は、確かに「崖のサブロー」の面影はあったが、身なりや言動は別人だった。

 こざっぱりとした服を着て、周りにも気を配る。みんなをまとめるリーダーと言っていい存在だった。

 話が一段落したところで、潔は三朗に話しかけた。

 「舘場さん、俺のこと覚えていますか」

 三朗はキョトンとしている。

 「ほら、10年ちょっと前の夏、戸田中でやった相撲大会に乱入したでしょ。あの時、土俵の上でやりあった中学生、あれが俺ですよ」

 三朗はしばらく考えていたが、首を振った。

 「いや、全然覚えてないなあ」

 「あのころ、舘場さん『崖のサブロー』って呼ばれて、みんなに怖がられていたでしょ。あの時も、酒に酔って鎌を振り回したじゃないですか」

 「全然覚えていないなあ。あのころの俺は、本当に、バカだったから」

 それから三朗は話し始めた。

 「俺は、本当にバカだった。あの後も人の女房を取ったりしたが、騒ぎが大きくなってここにはいれなくなった。で、北海道に一人で逃げた。炭鉱や建設現場なんかで働いたんだが、力が強いのと声が通るので何か人をまとめるようになった。何年かするうちに、あんな俺もこんなに真っ当になれたんですわ」

 「そりゃよかった」

 そして三朗は、伊保内地区で知っている出稼ぎ者をさらに取りまとめてくれると潔に約束した。

 「そういえば」

 別れる間際、潔はこう言った。

 「三朗さん、あの時、お前とは今度ゆっくり話したいって言ってましたね。こんな風に話せるとはねえ」

 「いや、もうその話は止めてくださいよ」

 三朗は頭をかきながら笑って言った。

 潔たちが奔走して九戸村に出稼ぎ労働者の労働組合が組織されたのはそれから2年後。三朗は設立時の副組合長を務めた。

 潔は走り続けた。労働運動だけではない。3人の子どもの成長に合わせてPTA活動に精を出し、工夫された僻地教育の例として全国大会で発表したりもした。

 1948年(昭和23年)に引き揚げてきてから10人兄弟の中でただ1人、潔だけが一度も九戸村から出なかった。

 ▼第6章1人じゃない9「9人もいた」に続く

 ▼連載第1回 プロローグ「さらば茶々山」はこちら

▼岩手編第1回 第4章岩手1「真岡収容所」はこちら

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