お別れは、いつものあの言葉で
昨年10月25日。父・眞下清が入院した翌日、私は始発の東北新幹線に乗って岩手に向かいました。 8月のお盆に帰省した時はまずまず元気だったのに、父はその後の2カ月で急に衰えました。歩くのが不自由になって転びやすくなり、...
昨年10月25日。父・眞下清が入院した翌日、私は始発の東北新幹線に乗って岩手に向かいました。 8月のお盆に帰省した時はまずまず元気だったのに、父はその後の2カ月で急に衰えました。歩くのが不自由になって転びやすくなり、...
「Tiatiaの子」の主人公・真木潔のモデルであり、筆者の父の眞下清(まっか・きよし)が11月24日午前8時44分、入院先の病院で亡くなりました。84歳でした。 悪性度の高いがんと診断され、10月24日に入院してからちょ...
1968年(昭和43年)2月、盛岡に住む良雄のもとに一通の手紙が届いた。 釧路の坂本源蔵からだった。 「しゅっこ、大幸が岩大を受けに来るってよ」 手紙を開いた良雄が秀子に教えた。
潔は結婚後、戸田の家を出て、宇堂口の繁子の実家で暮らし始めた。 1年後の1959年(昭和34年)10月、長女が誕生した。 「真木さん、うちの横に土地を買って家を建てないかね」 義父の末吉から、潔はよく言われた。 ...
1958年(昭和33年)8月。 23歳を目前にした潔は、家から5キロほど離れたところにある商店の奥の座敷にいた。 前には2人の女性、潔の1歳年下の繁子とその母・イトが座っている。 「当日は、合同結婚式でやりたいと...
1956年(昭和31年)8月1日、北海道から小学1年生になったばかりの大幸が戸田にやってきた。
1954年(昭和29年)。 年が明けてすぐ、戸田小学校で演説会が開かれた。
1952年(昭和27年)の暮れ、北海道の出稼ぎを終えた伸義が岩手県戸田村の家に帰ってきた。 根室の親戚に預けている秀子の様子をみんなに知らせる。
1952年(昭和27年)3月、戸田青年団の定期総会が開かれた。 場所は家の裏にある戸田小学校の教室。30人ほどが集まった。 真木家では克義と潔が参加した。
2人を預けた後、みんなはもう一つ、大きな決断をしようとしていた。 春以降の住処のことだ。
1951年(昭和26年)が明けた。 正月気分は全くない、寒々しい元旦だった。 子どもたち10人だけになった真木家だが、生きていかねばならない。
1948年(昭和23年)8月28日、小学校や寺、個人宅に分かれていた人たちが全員、船着場に集められた。 とは言っても総勢で250人程度だ。 午後4時ごろからソ連の貨物船への乗船が始まった。曇っているが雨は降っていな...
1943年(昭和18年)6月10日の午後。 克義、ハレ、潔、ハマ子の4人が、約5キロ離れた乳呑路まで歩いていた。 「抱っこ、抱っこ」 3歳のハマ子がすぐせがむが、ハレが叱りとばして引っ張っていく。 10日ぶりで...