1948年(昭和23年)8月28日、小学校や寺、個人宅に分かれていた人たちが全員、船着場に集められた。 と...
1948年(昭和28年)8月20日すぎ。 日本とソ連との調整も整ったようで、月末には引き揚げの船が来ること...
1948年(昭和23年)8月、引揚命令直後の騒ぎも落ち着き、乳呑路・孝徳寺での生活にも慣れてくると、子どもた...
1948年(昭和23年)7月30日。 朝、上の兄3人はいつものようにノツカの製材工場に出勤した。曇ってはい...
1947年(昭和22年)秋から48年にかけては、真木家にとって商売繁盛の時になった。 夏、家の前の浜全...
礼文磯にソ連の民間人が入ってきたのは、1947年(昭和22年)になってからだった。 礼文磯の西の外れ、墓地...
1946年(昭和21年)、舟が焼かれた礼文磯では海に出ることができなくなったため、魚は川で釣るか、磯で取るし...
1946年(昭和21年)5月、畑仕事が始まった。 昆布漁がなくなり、ソ連の命令で舟も焼かれた今、家族の主な...
真木一家が住む新田家の裏は、10メートルほどの崖になっていた。冬になるとそこに雪が積もり、1月...
近くに住んではいなかったが、礼文磯にはその後も、ソ連の軍人が食べ物が欲しいといってやって来ることがあった。 ...
真木吉五郎の一家は、1945年(昭和20年)の冬を礼文磯で越すことを覚悟しなければならなくなった。 しかし...