国後・留夜別村からの最後の引き揚げ者などを乗せたソ連の貨物船・レニングラード号は、1948年(昭和23年)8月29日午後2時過ぎに国後沖を発ち、国後島と択捉島の間の国後水道を北上、樺太・真岡に向かった。
国後島の南岸沿いに進んでいるときには穏やかだった波が、国後水道に入ると突然荒くなった。
大波が2枚3枚と海面から20メートルもある甲板を洗うほどになった。
それまで遊んでいた子どもたちも、慌てて中デッキに逃げ込んだ。
この辺りで、ソ連の船がレニングラード号に横付けし、本国に帰る兵隊を乗せようとした。
兵士5人ほどが、甲板から下げられた縄梯子を登って乗り込んだのだが、1人が大波に飲まれて落ちて行方不明になった、ということもあった。
それでも船は順調に進んだ。
翌8月30日になると、進行方向の左舷側に北海道のオホーツク沿岸が見えた。
多くの人が甲板に上がって眺め入った。
船は宗谷海峡を抜け、樺太の西側が北上していった。
8月31日夜、レニングラード号は、真岡の港に着いた。
9月1日の朝から上陸が始まった。
みんなまとめて、港から4キロ以上離れた高台の建物に収容された。
幼児や病人、老人はソ連の軍人が運転するトラックで運ばれたが、真木家の11人は、みんなと一緒に収容所まで歩いて行った。
最初に収容されたのは、旧日本統治下で建てられた真岡第2小学校を改造した「第1収容所」だったが、真木家が入れられたのは校庭にあった旧日本軍のテントの兵舎だった。
テントの中には板の上にシートがかけてあるが、雨が降ると水がその板の下を流れていく。とても横になれる状態ではなかった。それでも夫婦と姉妹たちはそこに入り、男の兄弟たちは校舎の廊下で過ごした。
食事は1日2回、決まった時間に出た。
コーリャンと小麦粉を入れた薄いおかゆで、塩ニシンで味付けしたものがバケツに入れられてやってきた。その時いる人にだけ渡していくため、いないと食べられないこともあった。
みんなたちまち痩せてきた。
特に潔は栄養失調気味になり元気がなくなってきた。
「外に行って、木っ端とガンガンを見つけておいで。こっそりな」
真岡に着いて1週間ほど経ったころ、はなが克義と潔に命じた。
校庭の隅の方を探したところ、崖のところがゴミ捨て場のようになっていて、そこに半分錆びた石油缶がたくさん捨ててあった。
2人はそれと木っ端を拾って持って帰った。敷地の隅に置いて、はなを呼びに行く。
はなは小さな鍋を持ってやってきた。
「カッカ、何するの」
潔が聞いた。
「見れば分かるだろ。煮るのさ」
「何を」
「まあ、黙って言うことを聞きな」
「はいっ」
はなの懐から麦粉が出てきた。
鍋の中で水を加えながら練った。
練ったものを器に一旦出し、鍋には水を入れて火にかけた。水が沸騰すると練った麦粉を伸ばし、少しずつ入れた。
「やった、ひっつみだ」
潔が声を上げた。
「しーっ」
「でも、味はどうするの」
「これがあるのさ」
はなは懐から粉の醤油を出した。ジャガイモと引き換えにロシア人の民間人からもらったものだ。
「あんなものばかり食べさせられたら、お前たち餓死しちゃうからね」
はなはそう言いながら食器に分けた。1人2、3切れしか入っていない汁だが、潔と克義は先を争うようにして食べた。その後、他の兄や妹も呼んで食べさせた。
その後も、何度か米や麦がはなの手元から出てきて、潔たちはなんとか飢えをしのいだ。
「カッカ、米や麦はどこから出てくるの」
ある時、潔ははなに聞いた。
「ここの中さ」
はなは秀子をおぶっている背負い帯に触り、にっこりと笑った。
国後で引き揚げ準備をする時、はなが最も心配したのは大家族の食料だった。手荷物に入れても全部没収されるという噂が流れていたからだ。
そこで、はなは布団の生地で澄子、陽子、秀子を背負うための帯を新たに縫った。その際、帯を中空にして、そこに米や麦粉を入れられるようにしたのだった。帯だから1本にはそれほどは入らないが、3人分の帯ともなると何食分かの食料を入れることができたのだった。
9月10日、みんなはもう少し高台にある旧樺太庁立真岡高等女学校を改造した「第2収容所」に移された。
みんな並んで動いたが、入り口近くになったところで列が動かなくなった。
収容所に入るに当たり、1家族ずつ持ち物検査を通っていたからだった。
高価なもの、書類や写真などは検査で全部取られる、というのが引き揚げ者たちの中に流れている噂だった。実際がどうなのかは、引き揚げた人と連絡が取れないため誰も分からず、不安だけが募っていた。
真木家の番になった。
小さな部屋に入る。横長のテーブルがあり、そこに荷物を置く。テーブルの向こう側には青い帽子をかぶった将校のような男が4人と、もっと階級の低い者が3人ほどいた。
11人家族なので11個のリュックや雑嚢がテーブルに置かれた。
真木家に高価な持ち物はない。鍋釜・衣類・食料、そして数枚の写真ぐらいなものだ。それでも隠していた食料を含め、何が取られるのか分からず、みんなハラハラしながら見守った。
男たちがリュックに手をかけて中を見ようとした。
その時、吉五郎が懐から何か取り出した。
厚さ1センチもあるルーブル紙幣の束だった。
男たちは手を止め、一斉に吉五郎の手元を見つめた。
吉五郎は札を1枚1枚、テーブルの上に並べ始めた。5枚、6枚、7枚…、吉五郎の手は止まらない。
男たちの目つきが変わった。
そこで吉五郎は手を止め、青い帽子の一番偉そうな男をまっすぐ見た。左手に持っている残りの札束を示した。
男は笑顔で握った右手を上げ、親指で出口を指した。他の男たちも笑っている。
「さあ、行くぞ」
吉五郎の一言で、みんな自分の手荷物を持って、早足に出口を出た。出口を開けてくれた若い係員は敬礼までしてくれた。
11人が部屋を出る前から、もう男たちが札を分け合い始めた。
「どうだ、こんなもんだ」
歩きながら吉五郎が言った。
「トッチャ、すごいな」
潔はこの時ほど、吉五郎が頼もしいと思ったことはなかった。
ソ連による持ち物検査はそのときだけで、後はなかった。
第2収容所は、教室や体育館に2段ベッドが据え付けられており、少し広かった。
真木家は教室のベッドの上段に落ち着いた。
一家族に割り当てられた広さは3畳程度。下の段と違い、天井が高いため人が立って歩けるぐらいで比較的快適だった。
ただ、さすがに11人もいられない。実際にいたのは吉五郎とはなと女の子5人だけで、男達はやはり廊下の隅などに座ったり寝たりした。
「第2収容所に入るともうすぐ出発ということらしい。あと少しだ」
良雄が聞きつけてきた情報に、みんな心を躍らせて待った。
第2収容所でも、はなは色々なところから食料を取り出してはみんなに食べさせたが、潔はやはり栄養失調気味で体調がすぐれなかった。
9月15日早朝、出発準備の知らせが回った。
日本の船が到着したのだ。
午前9時、みんな揃って収容所を出て、港に向かった。今度は下り坂で足取りも軽い。
潔はフラフラしていたが、それでもみんなと一緒に港まで5キロの道のりを歩いた。
港が近くなると、マストに日の丸がなびいている船が見えてきた。
どよめきが起きた。みんな指差し、笑顔で歩く。
近づくと、そこにいたのは小さくて古い船だった。
「高倉山丸」
船体にそう書いてある。
真岡に来る時の貨物船の半分の大きさもない。
これに1500人が乗るのだ。
「こんな小さくて大丈夫か」
そんな声も漏れた。
しかし、甲板上から日本人船員が手を振る姿が見えると、一斉に歓声がわいた。
「どうやって乗るの」
ハマ子が不安そうに尋ねる。
「見ろ」
克義が指差すところを見ると、しっかりした梯子が岸壁に降ろされていた。
ここでは検査などはなく、午後1時ごろから順番に乗って行った。乗る前にはDDTの白い粉を体にかけられ、みんな真っ白になった。
真木家は船内の大部屋に入った。
大部屋といえどもすぐ満員になり、木の床にぎっしり横になった。
午後3時過ぎ、晴れの真岡港を出港した。
そのうち、波がどんどん荒くなった。
16日から17日にかけ、岩手を中心に800人以上の死者・行方不明者を出したアイオン台風が、関東から三陸沖、北海道東方沖を通っていた。広い範囲で海は大荒れになり、1800トンの高倉山丸も揺れに揺れた。
大部屋にぎっしり横になっているが、揺れる度にゴロゴロと転がっては周囲の人にぶつかり合った。
船に乗り慣れた男たちを除けば、船酔いにならない者がいないほどで、あちこちで吐く姿が見られた。真木家でも吉五郎と伸義以外はすぐに気分が悪くなった。特にもともと体調が優れなかった潔は、一気に顔が青くなった。
「ちょっと外に出てくる」
フラフラしながら甲板に上がると、船は大きなうねりに翻弄され、今にも海に飲み込まれそうになりながら、何とか進んでいた。大きな波が何度も船体に当たっては波しぶきが飛び散る。
潔はたちまちズブ濡れになり、慌てて船内に戻った。
船内では握り飯などの食事も出たが、とても食べられなかった。
みんな生きた心地もしないまま2日間揺られた。
「函館山が見えるぞ」
函館港に入るときも、周りで歓声が上がり、甲板に上がる人もあったが、潔たちは船室から動く事ができなかった。
高倉山丸は9月17日早朝に函館港に入った。収容定員1320人のところに1520人が詰め込まれ、船内で亡くなったのが1人だった。
到着後しばらく船内に留め置かれ、手続きなどをしながら暮らした。
函館に着いてすぐ、黒っぽいパンが配られた。国後でロシア人からもらった酸っぱい黒パンに比べれば食べやすいはずだが、気分の悪い潔は食べられなかった。
翌日出た白いパンはおいしく感じられ、すっかり平らげた。
「潔がやっと全部食った」
はなにも笑顔がのぞいた。
潔はそれから少しずつ体調が戻ってきた。
9月20日、一行は上陸所のあった函館港の西埠頭に降り立った。
「日本へお帰りなさい」との横断幕が張られ、婦人会など数百人が岸壁で旗を振る中、大地に降り立った。先に北海道に逃げた人、前年に強制引き揚げになった人も肉親や親戚を探しに来た人もたくさんいた。
「ああ、日本に引き揚げるというのはこういうことなんだ」
盛大な歓迎ぶりにみんなしみじみと感じたが、一方でつい先日まで住んでいた礼文磯も紛れもない日本なのだ。「日本へお帰りなさい」との横断幕に、国後がすでに日本ではないとされているような現実を思い知らされた。
上陸すると、港から5キロほどのところにあった千代ヶ岱援護寮にトラックで運ばれ、収容された。
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※引き揚げ時に上陸した函館と引き揚げ船「高倉山丸」については、2019年にまとまった調査ができました。内容については本ブログの
をご覧ください。