■1 千代ケ岱援護寮
函館訪問記、前回は引き揚げ者が上陸した西埠頭と検疫所をご紹介しました。
今回はまず、私の祖父母や父などの一家が収容された千代ケ岱(たい)援護寮です。
祖父母など引き揚げ者約1500人を乗せた引揚船「高倉山丸」が函館港に入港したのが1948年(昭和23年)9月17日。みんなは手続きなどで3日間船内に留め置かれ、20日に前回紹介した「西埠頭」にある上陸所で歓迎を受けて上陸、トラックで全員「千代ケ岱援護寮」に収容されたようです(佐々木隼男さん「敗戦・進駐・引揚」による)。
その千代ケ台援護寮は、上陸した西埠頭の上陸所から北東に約5キロほど離れた、函館山よりは五稜郭に近い所にありました。今は「千代台公園」となっています。
元々ここは、江戸時代に津軽藩が陣屋を置いた所で、戊辰戦争最終局面の函館戦争では、旧幕府軍の拠点が置かれた所でもあります。公園の片隅に、「千代ケ岡陣屋跡」の掲示があります。
その後は陸軍の重砲兵連隊の兵舎が置かれていました。戦後、その兵舎が函館引揚援護局の局舎・千代ケ岱援護寮になったというわけです。函館市内には多い時で4つの援護寮がありましたが、千代ケ岱はもっとも大きく2400人を収容することができたといいます。
写真で見るとこんな感じです。
現在、ここに引き揚げ者関連の施設があったことを示すものは何もありません。陸軍重砲兵連隊関連と言われる門柱が残っていました。函館引揚援護局史にあった配置図と現在の地図を見比べると、この門柱は援護寮の裏口に当たるようです。
千代台公園には陸上競技場、野球場、弓道場、テニスコート、プールがあります。写真は陸上競技場。
公園内には盛岡中学(現在の盛岡一高)−早稲田大学−函館太洋倶楽部とアマチュア野球で活躍し、プレー中に事故で亡くなった「球聖」久慈次郎の記念碑もありました。
千代ケ岱援護寮は、祖父母や父たちが5日間ほど滞在し、ここで根室に行くか岩手県九戸村に行くかを決めた場所です。滞在は短いですが、子孫の我々にとってはとても重要な場所なのでした。
■2 函館桟橋
祖父母や父たちの一家は、1948年(昭和23年)9月25日、函館の援護寮を出て、津軽海峡を渡り、東北本線を南下し、さらにバスと徒歩で岩手県戸田村(現九戸村)の父の生家にたどり着きました。
当時は青函トンネルは当然ながらありませんから、青函連絡船で津軽海峡を渡りました。その青函連絡船は1988年(昭和63年)に廃止となり、発着に使われた函館桟橋のあった函館第二岸壁には今、連絡船「摩周丸」が記念館として係留・保存されています。
ここです。
こんな感じです。
ここから、こんな風にして乗り込んで行ったのです。
千代ケ岱援護寮からここまで、約3キロ。
寮を出て岩手に行く時、父は港まで歩いたと記憶していて、私もそのように記述しましたが、他の記録を読むと、トラックなどで送られた方が自然だと思うようになりました。船も列車も、引き揚げ者の移動は全て援護局から連絡が行っていて無料だったからです。
こんな写真もありますし。
援護寮ではありませんが、駅ごとに歓迎されたり差し入れがあったりした、と伯母も言っていましたから、事前に連絡が回っていたのは間違いなかったようです。ただし、九戸村内(当時の伊保内村から戸田村の生家までの8キロほど)は、みんなで歩いたという記憶で一致しています。交通機関がなかったのですね。
ともあれ、1948年9月25日、私の祖父母の一家11人は、この港を出て岩手に向かったのでした。
最後にもう一つ。函館市役所の近くに、こんな記念碑が立っています。
「樺太引揚者上陸記念碑」です。近くに説明書があります。
北方領土を含む千島の人々も樺太を経由して引き揚げており、この31万人余にはその1万3000人も入っています。「引き揚げ者」という意味では、この記念碑が函館市では唯一の痕跡と言えそうです。
以上、函館訪問記でした。