潔は後で知ったが、国後から引き揚げ直後、つまり1948年(昭和23年)9月の吉五郎一家には大問題が持ち上がっていた。
函館に着いたはいいが、さて、ここからどちらに向かうのか。北海道・根室か、岩手県・戸田村(現在の九戸村)か——というものだ。
はなや伸義は、根室に行きたいと思っていた。はなの兄の高原鉄造は根室で鉄道員をしており、異父弟の坂本源蔵も、釧路近くにある昆布森村の役場で働いていた。
国後から北海道に脱出した近所の人たちも、ほとんどが北海道にいると思われた。はなや良雄は根室に行ったことがあり、土地勘もあった。伸義は漁業で生きたいと思っており、岩手県の山奥に行きたいはずがなかった。
それに対して岩手県の戸田村は吉五郎が強く主張し、良雄や克義が賛成していた。
ただ戸田村自体は、吉五郎以外誰も知らない土地だった。
「俺は克義を連れて一旦戸田に帰る。お前たちは根室に行け」
一家が樺太・真岡に着いたころから、吉五郎はしきりに自分だけでも戸田村に帰ると言い始めた。
小さな娘たちを自分が連れて行くことはできない。働き手の良雄や伸義まで連れて行ってははなたちが立ち行かない。
そう考えての折衷案のようだった。
良雄や克義にしても、戸田に積極的に行きたいと思っていた訳ではない。ただ漁業で生きる気のない2人は、内地に行って自分の能力を試してみたい、そのためには岩手の山奥でもやむを得ないと考えていた。
真岡での2週間でも結論を出せず、函館まで持ち越していた。
そこに国後からの最後の引き揚げ者が函館に着いたということを知り、根室から鉄造が駆けつけた。
「いま北海道は引揚者で一杯で仕事もない。このまま根室に行っても生きていけるかどうか分からんよ。根室は空襲で丸焼けになって、まだ全然昔のようになってない。とりあえず内地に行って、もう少し落ち着いてから根室に来てはどうかい」
鉄造ははなたちに言った。
実際、状況は鉄造の言う通りだった。
各地からの引き揚げで函館にたどり着いたのは約30万人いたが、3分の1の10万人が身寄りのない人だった。函館にはその身寄りのない無職の人があふれていた。漁業に携わったことのある人は根室を含む北海道各地に向かい、何とか働き口を求めようとした。
その根室も厳しさにおいては引けを取らなかった。
街の8割を焼いた大空襲から3年。復興はなかなか進んでいない。終戦後すぐに島から逃げて来た人々も多かったが、その人たちですら生活できず、道内の道もない所に「漁業開拓移住団」を組んで入植して行ったぐらいだった。
「根室に行けば、何とか漁業でやっていけるだろう」
伸義などはそのような考えだったが、実態は全く違っていた。
根室から急ぎやって来た鉄造が、あえて見知らぬ岩手に行くよう妹のはなを説得したのも当然だった。
鉄造の話を聞き、最後にはなが決断した。
家族はひとつ、離れちゃいけない。
はなは自分の信念に従い、見ず知らずの戸田に行くことに決めた。
そしてはなが決めると、誰も反対はできなかった。
その後、坂本源蔵もやって来た。源蔵も一家が岩手に行くことに反対しなかった。ただ、子だくさんの家族の行く末を心配していた。
9月25日早朝、一家は援護寮を出た。礼文磯班のほとんどが根室を中心とした北海道に行先を求める中、津軽海峡を渡るのは真木家の11人と、あと一家族だけだった。旅費は国が支給してくれる。
函館は細かな雨が降っていた。気温も10度ほどと肌寒い。良雄・伸義・克義は大きな荷物を背負い、吉五郎・はな・潔が小さな子どもを背負った。
潔は最後にもう一度収容所を振り返った。
収容所で喜充や正策とは会えずじまいだった。
喜充の本川一家は、知床半島の羅臼に行った。函館に親戚も多く、直前まで函館に残ることにしていたが、礼文磯の西にあるオカップから北海道に逃げた親戚が羅臼にいることが分かり、父親の豊三郎が翻意したのだった。
「何であんな北海道の端まで行かなけりゃならないんだ」
そう聞く喜充に、豊三郎が言った。
「いいか、あそこは魚も獲れる、昆布も採れる。国後に似た所なんだ。そして羅臼では国後は目の前で爺爺岳も見えるんだ。もし国後が日本に帰ってきたら、俺たちが一番先に国後に渡って落ち着くんだ」
その説明に、みんな納得した。本川家は真木家が収容所を出る2日ほど前に、羅臼に旅立って行った。
正策たち佐藤一家は室蘭に向かったということだった。そして潔は正策とはもう、二度と会えなかった。
真木一家は、朝一番の青函連絡船で青森へ渡った。海上からは函館の山も、青森側の山もガスに煙って見えなかった。
4時間ほどで青森に着くと、長いホームを歩き、今度は東北本線・青森駅から蒸気機関車の引く鈍行列車に乗る。目指すは140キロ先の岩手県福岡町・北福岡駅だ。
蒸気機関車に乗るのはおろか、吉五郎や良雄を除けば見るのも初めてのことだ。煙を吐いて走る黒い車体にみんな驚きながら乗った。
天気は少しずつ回復して、青空ものぞいてきた。
客車は比較的すいていた。みんなは向かい合った座席の2つ分を占領し、初めて見る内地の景色を楽しんだ。
窓から海が見えなくなり、内陸を走り出すと、線路の左右にリンゴ畑が見えて来た。赤い実が鈴なりになったリンゴの木が一面に広がる中を列車は走っていく。子どもたちは大はしゃぎだ。
「まだまだ、こんなもんじゃないぞ」
吉五郎が得意気に言う。
吉五郎は結婚後、岩手に帰省しようとしたことがある。昆布などの土産に「数週間後に帰る」というような手紙を添えて、何度か送っていた。
「けれどな、そんな時に限って胃潰瘍が悪くなるんだ。寝込んでしまって結局帰れなかったんだよ」
こんな話を潔たちは、はなからこっそり聞かされていた。
吉五郎にとってはそんなこんなで今回が、戸田村を出てから初めての帰郷だった。
「28年ぶりだ」
吉五郎は何を見ても、上機嫌で繰り返した。
引き揚げ者が乗っていることが事前に知らされていたのだろう。
「みなさまお疲れさまでした」
止まる駅々では、婦人会などが横断幕や日の丸の旗で歓迎してくれた。食べ物の差し入れもあり、みんなこそばゆく思いながら、やはり日本はいいなと思った。
そのうち、近くの空いている席に、男の2人組がやってきた。そこには若い女性が2人座っていた。
男たちは2人の女性にちょっかいを出し始めた。
「君たち、どこ行くの」
肩や手に触れようとする。
日本語で話しているが、イントネーションが異なる。
女性が嫌がるのを楽しむように、2人はちょっかいを止めない。
「おいお前たち、いい加減にしろ」
見かねた近くの男が2人に言った。
2人組の1人が男を睨んで言った。
「いいかい、日本は、日本は戦争に負けたんだよ。負けた国の人間が私たちにそんなこと言えるのかね」
車内は静まり返った。
2人組は次の駅で降りていった。
「戦争に負けるって、あんなことを言われてもしょうがないってことなの」
潔は小声で吉五郎に聞いた。
「そうさな」
吉五郎はそう言ったきり、あとは何も言わなかった。
汽車は岩手県に入った。
北福岡駅の1つ手前の金田一駅に止まったが、28年ぶりの吉五郎は、もう次が下車する駅だと気づかない。他のみんなも当然分からない。全員くつろいだまま、列車は北福岡駅に滑り込んだ。
「きたふくおかー、きたふくおかー」
駅員が声を上げる。
吉五郎がいきなり立ち上がった。
「おうここだ、ここで降りるぞ。そら急げ」
大慌てでみんな降りる支度を始めた。小さな子どもたちを背負おうとする。荷台の荷物を降ろす。広げている食べ物をしまい込む。でもとても間に合わない。
妹たちを抱いてはホームに降ろし、吉五郎・はなや潔たちも何とか下車した。しかし、大荷物を持った良雄や伸義が降りる前に警笛が鳴り、機関車がそろそろと動き始めた。
「もうだめだ、あんちゃたち、どこまで行くか」
ハレやハマ子がホームで泣きそうになって見ていると、客車の窓がガクンと下がって全開になり、そこからまず、大きな荷物がポイポイと投げ出された。その後で良雄と伸義が飛び降りてきた。
みんな大笑いで改札口を出ると、そこに吉五郎に似た若い男が笑顔で立っていた。
「吉五郎さんかい。山中永太郎だ」
吉五郎の兄・山中金松の長男・永太郎だった。
金松や吉五郎の父母は吉五郎が戸田村を出る前に亡くなっており、長く金松が一族の長を務めている。
郷里・晴間沢には、函館から吉五郎が打った電報が届いていて、永太郎は金松に命じられて駅まで迎えに来ていた。永太郎は吉五郎の一家が総勢11人ということは知らず、少し驚いた様子だった。
ここから先、線路はない。約25キロほど南東にある戸田村に、車と徒歩で行く。
一行は2つに分かれた。
大きな荷物を背負った上の兄3人は、森林組合が走らせている木炭運搬用トラックの荷台に乗せてもらい、戸田の役場前に向かった。
他の9人は乗り合いバスに乗った。小さなバスはゆっくり進み、折爪岳の険しい峠を越えた。戸田村の手前の村が終点だった。
吉五郎たちはそこで一旦休憩してから、戸田に向かった。5キロの道のりを歩く。秀子・陽子・澄子の三人は、やはり吉五郎・はな・潔に負ぶさった。伊保内村はあまり起伏はないが、戸田村に入った途端、1000メートルに及ぶ長い登り坂がある。
一時間以上かけて戸田の役場前にみんながそろった時、日はすでに目の前に迫る西の山に隠れ、辺りは暗くなりかけていた。
一行はそこからさらに4キロほど歩かなければならない。
岩手県九戸郡戸田村は、北上山地のほとんど北端にある南北10キロ・東西8キロの山村だ。
山の間を縫って、八戸城下から南に下る旧九戸街道(現国道340号)が村の真ん中を南北に貫いている。
当時の戸田村は460世帯で人口は3000人強。村の7割が山林で、田は数%程度、畑を合わせても10%程度にしかならない。主な産業は林業や木炭生産、養蚕などだった。
村のやや北寄りに戸田の集落があり、役場や診療所、小学校、郵便局、商店や床屋、鍛冶屋などが集まっていた。
戸田から街道を南に行くと妻の神という小さな集落があり、そこに中学校がある。さらに南に行くと平内があり、そこで街道から西に分かれ、村で一番高く隣村との境でもある就志森に向かって山道を上る途中に、目指す晴間沢があった。
12人は街道を歩き始めた。ハレや潔は前の方を、吉五郎や永太郎は最後尾を歩いている。
500メートルほど行くとまた長い上り坂があり、その頂には地元の神社への階段がある。ここが戸田と妻の神との境であり、ここからは街道沿いとはいっても人家はほとんどなくなる。暗くなれば頼りになるのは月と星明かりだけだが、この日はまだ月は出ていない。
永太郎がいるので道に迷う心配はもちろんない。が、子どもたちにとっては初めての道だ。海辺に住み慣れたハレや潔は、どこまでも果てしなく続く黒い山に恐れを感じていた。小さな妹たちはすでに背中で寝息を立てている。
平内から細い道に入り、急な上り坂になったあたりで、闇の中から人が下りてくる気配がした。
姿が見えてきた。法被を着た男で髪の毛はほとんどない。ハレはあっと思ったが、その男は無言ですれ違った。そして列の最後尾が見えたのか、そこで初めて声を発した。
「吉五郎か」
「ああ。吉五郎だ」
「よく来たな。遅かったから来たよ」
当主の金松自ら迎えに出て来たのだった。
金松は吉五郎に、昔からある木など示しながら歩く。吉五郎はすこしずつ記憶を取り戻しているようだった。晴間沢に着いた時にはもう夜半になっていた。
晴間沢は4戸だけの集落だ。
山中金松家が吉五郎の生まれた家だが他の三戸も山中家の親戚だった。
金松の家には近くの親戚も揃い、吉五郎たちの到着を待っていた。ランタンの灯りの下、板の間で20人を超える宴会になった。
囲炉裏の大きな鍋にはっとうが煮えている。空腹だった子供たちは、夢中で食べ、おかわりした。吉五郎は上機嫌ではなや子どもを紹介するとともに、近所や戸田村の状況を聞いていた。
9月25日は潔の13歳の誕生日だったが、本人を含め誰もそのことを思い出した人はいなかった。
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