第3章 抑留 10 最後の宴 Posted on 2017年12月10日 1948年(昭和28年)8月20日すぎ。 日本とソ連との調整も整ったようで、月末には引き揚げの船が来ることが伝えられた。 7月末に集められてから3週間。少々弛緩した空気が漂っていた国後島・留夜別村の乳呑路は、再び高...
第3章 抑留 9 連行 Posted on 2017年11月30日 1948年(昭和23年)8月、引揚命令直後の騒ぎも落ち着き、乳呑路・孝徳寺での生活にも慣れてくると、子どもたちはだんだんと暇を持て余すようになった。 潔、喜充、正策、そして尚武の4人は、しばらくは寺の境内や乳呑路国民...
第3章 抑留 8 強制引揚命令 Posted on 2017年11月20日 1948年(昭和23年)7月30日。 朝、上の兄3人はいつものようにノツカの製材工場に出勤した。曇ってはいたが暑い日で、気温は午前中に20度を超えた。 ハレは食器洗いや洗濯など、朝の仕事をしていた。 しばらくする...
第3章 抑留 7 異国の人 Posted on 2017年11月4日 1947年(昭和22年)秋から48年にかけては、真木家にとって商売繁盛の時になった。 夏、家の前の浜全部でジャガイモを栽培したのだ。 そしてそれが大収穫となった。
第3章 抑留 6 特製ベスト Posted on 2017年10月25日 礼文磯にソ連の民間人が入ってきたのは、1947年(昭和22年)になってからだった。 礼文磯の西の外れ、墓地に通じる道の辺りに、戦後すぐ北海道に逃げた家が数軒あった。その空き家に、いくつかの家族が住みついた。その後次第...
第3章 抑留 3 舟を焼かれる Posted on 2017年9月30日 真木一家が住む新田家の裏は、10メートルほどの崖になっていた。冬になるとそこに雪が積もり、1月が終わるころにはそれがカチカチに凍って天然のスロープになった。 1946年(昭和21年)2月中旬のある日、ハ...
第3章 抑留 1 マス釣り Posted on 2017年9月16日 真木吉五郎の一家は、1945年(昭和20年)の冬を礼文磯で越すことを覚悟しなければならなくなった。 しかしこの年は、例年にも増して冬への備えが貧弱だった。 いつもなら、夏の間必死で採った昆布を売り、その代金で米や味...