9 9人もいた
1968年(昭和43年)2月、盛岡に住む良雄のもとに一通の手紙が届いた。 釧路の坂本源蔵からだった。 「しゅっこ、大幸が岩大を受けに来るってよ」 手紙を開いた良雄が秀子に教えた。
1968年(昭和43年)2月、盛岡に住む良雄のもとに一通の手紙が届いた。 釧路の坂本源蔵からだった。 「しゅっこ、大幸が岩大を受けに来るってよ」 手紙を開いた良雄が秀子に教えた。
潔は結婚後、戸田の家を出て、宇堂口の繁子の実家で暮らし始めた。 1年後の1959年(昭和34年)10月、長女が誕生した。 「真木さん、うちの横に土地を買って家を建てないかね」 義父の末吉から、潔はよく言われた。 ...
1958年(昭和33年)8月。 23歳を目前にした潔は、家から5キロほど離れたところにある商店の奥の座敷にいた。 前には2人の女性、潔の1歳年下の繁子とその母・イトが座っている。 「当日は、合同結婚式でやりたいと...
1956年(昭和31年)8月1日、北海道から小学1年生になったばかりの大幸が戸田にやってきた。
1954年(昭和29年)。 年が明けてすぐ、戸田小学校で演説会が開かれた。
1952年(昭和27年)の暮れ、北海道の出稼ぎを終えた伸義が岩手県戸田村の家に帰ってきた。 根室の親戚に預けている秀子の様子をみんなに知らせる。
1952年(昭和27年)3月、戸田青年団の定期総会が開かれた。 場所は家の裏にある戸田小学校の教室。30人ほどが集まった。 真木家では克義と潔が参加した。
2人を預けた後、みんなはもう一つ、大きな決断をしようとしていた。 春以降の住処のことだ。
1951年(昭和26年)が明けた。 正月気分は全くない、寒々しい元旦だった。 子どもたち10人だけになった真木家だが、生きていかねばならない。