「おい、吉五郎が血さ吐いで倒れたんだとよ」
1948年(昭和23年)11月末のある晩、潔は文治郎から吉五郎が吐血したと知らされた。
野外での作業を手伝っている時、突然血を吐いてそのまま倒れたのだという。一緒に作業をしていた人が長倉に寄って、その様子を教えてくれたのだった。
夜の9時ぐらいだったか、潔は真っ暗な山道を駆け下りていった。
晴間沢から「来い」と言われたわけではない。けれど、いてもたってもいられず長倉を出た。
雪はまだない。長倉の家から数百メートルは、月も見え馴染みのある場所のため何ともない。しかし木々が茂る森の中の道に入ると「しまった」と思った。
ギャーン、ギャーン
嫌な鳴き声が聞こえる。あれは狐だ。
背中にサーっと冷や汗が流れ、急にスピードが落ちた。
狐に人がだまされた話は、国後で大人たちから何度も聞かされていた。半分は笑い話だが、半分は本気だった。
狐には、潔は国後で何度も出会った。パッと逃げても必ず少し離れたところで立ち止まり、じっとこちらを見つめるのだった。その目つきは一度見たら忘れられない。人を飲み込むような、惑わすようなその目を潔は思い出した。そしてその目で今、どこからかじっと睨まれているような気がした。
フクロウも鳴いている。どうと風が吹いて木々が大きく揺れ、ざわめく。落ちた木の葉が顔に当たる。今にも山に捕らえられそうになるのを振り切り、潔は全力で走り始めた。
うっそうとした山を抜けると、家の灯りが小さく見えてきた。潔は止めていた息を吐いた。一気に力が抜けた。
晴間沢の小屋に着くと、吉五郎は布団に横になりすでに眠っていた。
血を吐いたというのだから真っ青な顔色を想像していたが、赤みが差していつもの吉五郎の顔だ。はなに聞くと医者は「一時的なもので命に関わるようなものではない」と話し、あまり効きそうもない水薬を処方していったという。
ほっとしたが、もうここから夜道を帰る勇気はなかった。潔は晴間沢に一晩泊めてもらった。
翌朝。
「おい潔、さっさと長倉に戻らんか」
暗い中、先に目が覚めた吉五郎から潔は起こされた。
心配で、あの夜の山を抜けてせっかく来たのに。
一瞬気色ばんだが、逆にいつもの吉五郎に戻っていたことで安心もした。口答えすることなく長倉に引き返した。
医者は一時的なものだと診断したが、結局吉五郎はそれから農作業などはほとんどできなくなっていった。
吉五郎はいつも、小屋の炉端にいて腹を出し温めるようになった。何か食べても近くに置いた洗面器によく吐いた。国後ではあれほど毎日飲んでいた酒も、飲めなくなってきたようだった。痩せてよく見えていたあばら骨が、さらに浮き出てきた。
1949年(昭和24年)元旦を、潔は長倉で迎えた。
晴間沢に行くと、配給された米で作った餅があり、久しぶりに白い餅を食べさせてもらった。
「おい潔」
呼ばれて吉五郎のところにいく。
「学校に行け」
苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
冬休み明けの3学期から戸田中学校に通うのだという。
「もう、役場がうるさくてな」
吉五郎のところには、村の教育委員会の担当者が何度か来ていた。
「真木さん、新しい憲法の24条に書かれてるんですよ。国民は子どもに普通教育を受けさせなきゃならんって。これ、義務なんですよ」
ハマ子についてはそれに従い、すぐ戸田小学校に通わせた。しかし農作業を手伝うことで食い扶持を稼がせようとしていた潔については、吉五郎はその度に断っていた。
しかし、吉五郎にも弱みはある。国後からの引き揚げ者ということで特別の配給を受けている。子どもが多いということで生活保護も受けている。従わない訳にもいかなかった。
1月中旬、潔は戸田村立戸田中学校1年に編入した。
「真木は北海道の先にある国後島からの引き揚げ者だ。戦後もソ連の占領下で3年過ごしたそうだ。みんな仲良くしてやってくれ」
担任がそのように紹介した。
潔にとって3年半ぶりの学校だ。
戸田中学校は、村でただ一つの中学校だ。学制改革と同じ1947年4月の開校で、まだ創立2年目だった。当初は戸田小学校に併設されていたが、潔が編入直前の11月に晴間沢に近い妻ノ神地区に新校舎が建てられ移転した。3学年で5クラス。2年生に長倉のハナヨがいたが、あと潔が見知った人はいない。教科書はまだなく、先生がガリ版で手書きのプリントを作り、授業を行っていた。
潔は普段、シャツに綿の上着とズボン姿だったが、学校に通うのにさすがにこの上着はないだろうということになったのだろう。はなが街に出て、商店で古着の学生服を買って来てくれた。
中学に通うとなると、文治郎を手伝うことがほとんどできなくなる。潔は長倉から晴間沢に戻り、家族と一緒に生活することになった。戸田中のある妻の神は晴間沢から1キロ程度。長倉より通うのも楽だった。
ただ晴間沢に戻った後も、週末は長倉に農作業の手伝いに行った。
長倉の近くに同級生の男の子が住んでいて、すぐ仲良くなった。
潔は初めて英語の授業を受けた。
中学1年生が終わろうとしていた時でも、まだアルファベットを習っていた。
「真木、書いてみろ」
先生に言われ、潔は黒板に書いた。
а
ъ
в
教室がざわついた。
「これ何だ」
「えっ」
「それ、英語じゃないぞ」
「あっ、そうか」
潔が書いたのは、国後で少しだけ習ったロシア語のアルファベットだった。
このころでもまだ、アルファベットを書いたり、簡単な言葉は話すことができた。
3学期が終わるころ、国語の授業で、先生が黒板に大きく書いた。
偉人
学年最後の課題で、「自分が偉人だと思う人について作文を書く」というものだった。
「偉人」と言われてもピンと来ない。
先生も具体的な人の話をしてくれなかった。潔はどうしたものかと思いながら、全く書けずにいた。
数日後、潔が晴間沢で苦吟していると、たまたま帰って来ていた良雄がノートを覗き込んだ。
「何、偉人だと。ちょっと俺に貸してみろ」
そう言うと潔の鉛筆を取り上げ、ノートに書き始めた。
今、世界一の偉人と言えば、それはスターリンのことです。
「あんちゃ、スターリンってだれだ」
「国後で見たソ連の新聞に何度も出ていた人がいただろう。あれがスターリンだ」
そんな会話をしながら、すらすらとソ連の最高指導者であるスターリンについて書き、ノートを渡した。
潔はスターリンがどんな人か、全く知らなかったが、他に書ける人もいない。翌日、そのままノートを国語の先生に提出した。
スターリンは死後、国内外で強く批判されるが、この時はまだドイツを破って第二次世界大戦を連合国側の勝利に導いた主役の1人だった。一方で米ソの対立はすでに始まっており、アメリカ占領下の日本国内でも、ソ連の影響を警戒する記事が新聞などに掲載されたりしていた。
数日後、潔は校長から呼び出された。
「真木、お前はなんでスターリンのことを書いたんだ」
潔は問われるままに、偉人といってもチンプンカンプンだったこと、たまたま課題を見た長兄が書いてくれたこと、他に書ける人もいないのでそのまま提出したことを話した。
「思った通りだ。子どもにこんな文章が書けるはずがない。だから字もこんなにうまかったんだな」
校長は大笑いして潔を放免した。
※物語を通して読める本はこちらから購入できます。