1947年(昭和22年)秋から48年にかけては、真木家にとって商売繁盛の時になった。
夏、家の前の浜全部でジャガイモを栽培したのだ。
そしてそれが大収穫となった。
7月から9月にかけて掘り起こされたジャガイモは、裏の防空壕が全部埋まるぐらいになった。
それをロシア人の軍人や民間人にバケツや樽で売った。
民間人で買いに来るのは、おばさんだったりおばあさんだったり、例外なく女性だった。
粉やサラミなどに加え、旧日本軍の備蓄にあった粉醤油や粉味噌を持ってくる人もいた。
「こんなの、私たちは使わないからねえ」
そう言って、喜んでジャガイモを持って行った。
軍人はほとんどがルーブルで払っていった。
相場は樽1杯で300ルーブル。
お金をもらうと、吉五郎は「おまけだ」と言って樽の上にジャガイモを5、6個置く。ロシア人たちは笑顔で去っていき、またしばらくすると買いに来るようになった。
ジャガイモだけでなく、人参やネギなども一緒に売れた。
別に看板などを出している訳ではないが、ロシア人の中で口コミで伝わったのか、買いに来る人が途絶えることはなかった。
吉五郎は受け取ったルーブル紙幣を袋に入れて、自分の布団の下に隠していた。
3人の息子の月給と、それを上回る額の売り上げ金が積み上がっていった。
物々交換の品にタバコがあった。
島内にあった日本製のタバコは、ソ連軍占領後すぐになくなった。
家族では吉五郎、良雄、伸義が吸う。3人が困っていると、ジャガイモを求めに来た兵隊が、ポケットに入れていたタバコの葉と茎を刻んだものを掴んで置いていった。
翌年になると、ソ連のタバコの種を手にいれることができ、栽培を始めた。
日本の葉タバコよりも、さらに大きな葉に育った。自分たちで吸う分には十分だった。
潔たちはロシア人の将校がタバコを吸う姿をカッコイイと思いながら眺めていた。
彼らは刻んだタバコと新聞を、ズボンのポケットにいつもそのまま入れている。
タバコを吸いたくなると、まず新聞を取り出し、手で器用に四角に切り取る。そこにタバコを取り出して乗せる。くるくると巻いて新聞紙の端にツバを着けて貼り付け、細長いタバコにしてからマッチを擦って火をつける。
良雄や伸義も同じようなことをするが、こうはいかない。一連の動作に無駄がなく、スマートだった。
「俺たちもやってみようぜ」
潔らいつもの3人組が秋のある日、タバコに挑戦した。
兄たちが工場から持って帰ってくるので新聞紙は入手できるが、肝心の葉っぱがない。
「これでいいよ、食べられるし」
潔が近くに生えているヨモギを指差した。
柔らかい葉っぱを取って日に干す。
カラカラに乾いたらもんで刻む。
マッチは貴重品だが、家から数本取ってきた。
さすがに目につくところでやるのは気がひけるので、家の裏でやることにした。
新聞紙を手で切るが、ソ連軍の将校のようにピリッとうまく切れず、ギザギザになってしまった。
それにヨモギの葉を置いて巻いてみる、ツバを着けすぎてヨレヨレになったが、何とかタバコの感じになった。
「よし、火をつけるぞ」
潔がマッチを取り出した。
その時だ。
「こら、何をしているか」
吉五郎が顔を覗かせた。
「子どもはタバコなぞ吸うものではない」
3人はヨモギのタバコとマッチを吉五郎から取り上げられた。
秋のある日、潔たちが遊んでいると、村道を1人のロシア人の少年が歩いてやってきた。
自分たちより少し年上、15歳ぐらいだろうか。手には猟銃を持っている。仕草から鴨などの鳥を撃ちに来たのがわかった。
「おい、ちょっとからかってやろうぜ」
潔たちは、20メートルぐらい離れながら、少年の後についていった。
少年が猟銃を構えて鳥を撃とうとすると石をなげて邪魔をする。
すると少年は猟銃の銃口をパッと潔たちに向けた。
3人は「わっ」と叫びながら散らばって逃げる。
そしてまた少しずつ間を縮めていっては邪魔をし、猟銃を向けられて逃げる。この繰り返しだ。
そのうち、何となくその少年と通じ合うようになってきた。
「ほら、そこ、鳥」
潔たちがロシア語で教えると、そちらの方を向くようになった。
最後には1羽、鴨を撃ち落とすことに成功した。
潔たちは拍手したが、鴨は海に落ちてしまった。
「ちょっと待ってろ」
3人は長い棒を探してきて、鴨を岸に引き寄せて取ってやった。
少年は笑顔で鴨を持って行った。
3人は手を振って見送った。
その少年は、その後も何度か鴨撃ちに来て、潔たちと仲良くなった。
ロシア人が店を開くようになったのは1948(昭和23年)の春からだ。
乳呑路に店ができて、パンやサラミ、酒やタバコ、砂糖や飴など。食料だけでなく衣類や布地も売った。
工場で働く人は、帰りに乳呑路まで行って買って来たりした。
「ハレ、これ」
ある日、良雄が帰ってくると、ハレに紙包みを渡した。
開けてみると、出てきたのは黒に細い白線が入ったウール生地だった。
「店に並んでたから買って来たよ」
見とれて言葉が出ないハレに笑顔で言う。
「いいベストを作ってくれたお礼だよ」
ハレは生地を抱きしめて奥の部屋に行き、桐の箪笥の自分専用の段に丁寧に置いた。
いつか、これで自分の服を縫おう。
ハレは心に決めた。
6月、山イチゴの季節になり、子どもたちで食べに行った。
真木家ではハレに潔、ハマ子、澄子まで。他に近所の子どもも一緒で総勢10人ぐらいだ。
礼文磯の外れ、墓地の手前の丘にはこの季節、山イチゴが群生している。粒が大きくとても美味しい。小さな子でも手が届き棘などもないため、子どもたちの格好のおやつだった。
2キロほど歩き、丘にたどり着くと、そこにはロシア人の子どもたちが来ていた。男女合わせてやはり10人ぐらいだ。
イチゴはたくさんあって、別に取り合いになるわけではないが、やはり気になる。
互いに意識するうちに、口喧嘩が始まった。
「こっちが先に来てたんだ。俺たちのものだ」
ロシア人の男の子が言う。
「俺たちなんか、毎年来てるんだぞ。お前たちは今年からじゃないか」
こっちも負けてはいない。
互いに言葉は少ししか分からないが、それでも言いたいことは通じるのだった。
その時、ロシア人の子が言った。
「やい、日本は戦争に負けたんだぞ」
一瞬みんなひるんだが、すぐに言い返した。
「うるさい、国後じゃ戦ってないじゃないか」
ハレも潔も、大声で言い返しながら、妹たちにイチゴを食べさせた。
入ってきたのはロシア人だけではなかった。
朝鮮人がまとめて数十人、ノツカの木材工場で働き始めた。
良雄の説明では樺太からこちらに来たのだという。
もう7月になろうかというころ、工場で働くロシア人と朝鮮人とでサッカーの試合があった。
潔はいつもの3人を誘って乳呑路まで観戦に出かけた。
荒くれ男たちのサッカーだ。試合も当然荒っぽかった。
殴り合いこそしないが、互いに相手の足や体を蹴るのは普通だった。
しかし、形勢はロシア人チームに一方的に傾いていた。
審判がロシア人で、朝鮮人の反則は取るが、ロシア人の反則はほとんど取らないからだった。
そのうち、見物している朝鮮人も含めて騒ぎになってきた。
「ストライキ、ストライキ」
そんなことを叫んでいる。
試合は混乱のうちに終わったが、翌日からしばらくの間、朝鮮人の労働者たちは、本当に工場に出て来なかったという。
「それがストライキというものらしいよ」
良雄がみんなに話した。
4月ぐらいから、間もなく引き揚げが始まるという噂が聞こえてきたが、具体的な話はまだ何もなかった。ただこのころには前年の引き揚げ時の状況がかなり伝わってきていたため、どの家でもいつ引揚命令が出てもいいように、準備だけはしていた。
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