礼文磯にソ連の民間人が入ってきたのは、1947年(昭和22年)になってからだった。
礼文磯の西の外れ、墓地に通じる道の辺りに、戦後すぐ北海道に逃げた家が数軒あった。その空き家に、いくつかの家族が住みついた。その後次第に増えてきて、乳呑路までの間の空き家約10軒ほどに住むようになっていた。
そのロシア人たちが何をしている人なのか、潔たちには分からなかった。
国後の他の地区や、他の島では、日本人とロシア人が同じ学校で学んだようなこともあったが、礼文磯では終戦直後から学校はないも同然になっており、ジャガイモなどを求めてやってくる時以外は、ほとんど接点がなかったからだ。
潔は仲間たちと学校に遊びに行くことも多かったが、ハレは終戦以降、学校には一度も行かなかった。
もう13歳。校庭で走り回って遊ぶという感じでもないし、そもそも友だちも学校に来なくなっていた。何より秀子が生まれ、子守の負担が増えた。陽子が大きくなって一時は解放されたおむつ洗いも、再びハレの仕事になった。
ハレは裁縫や編み物をもっとやりたかった。
しかし、敗戦後に北海道との交通が途絶え、新たに物を買うことができなくなった。秀子が生まれたことで小さな衣類も解くことができなくなった。
何かいいものはないか。
ハレは住んでいた小屋に入り中を見回した。
目に付いたのが、土間の隅に盛り上がって放置されていた漁網だった。そこにはもう網として役に立たなくなったものを吉五郎が解いて毛糸のように丸めていたものもあった。
これで編み物ができないかな。
ハレはさっそく家に持ち帰り、子守をしながら編み始めた。
工場に通う良雄が着る、ざっくりとした風合いのベストにしようと決めた。
以前、友だちが着ていたベストの穴模様を思い出し、試行錯誤しながら編み進めた。編んでは解き編んでは解きしながらだが、ちっとも面倒ではない。少しずつ自分のイメージ通りに出来上がっていくため、ちょっとの時間も惜しんで編み続けた。
10日ほどで完成した。漁網を解いて編んだとは思えないような立派なベストだった。
「はい、あんちゃ、これ」
ハレは良雄に着せた。目測で編んだがピッタリだ。
「どうした。こんなのどこから出てきたんだ」
「へへ、実は…」
「え、これ、網の糸なのか」
そんなことを言っていると、聞きつけた伸義も寄ってきた。
「いいな。おいハレ、俺にも編んでくれよ」
ハレはさらに1週間かけて、今度は伸義のベストも編んでやった。一度編んでみたものなので2着目は簡単に、出来栄えも良く仕上がった。
2人は喜んで工場に着て行った。
ハレは工場での反応をドキドキしながら待った。
夕方、帰ってくると、2人は笑顔で話し始めた。
「見た目が面白くて目立つだろ。何だこれは、ということになったんだ」
話し出した伸義に、良雄が言葉を継いだ。
「実は漁網だ、と言ったらみんなびっくりさ」
「で、次に誰がこんなの編んだんだ、と来るだろ、当然」
2人が交互に話し続ける。
「うちのまだ13の妹だ、と言ったらみんな驚いてな」
「ああ、編み物屋でも始められるな、と褒められたよ」
本当に、編み物や裁縫をしてお金を稼いで生きていけたらどんなにいいだろう。
胸の鼓動を感じながら、ハレはそんなことを思っていた。
だが現実は、物も満足にない、出ることも許されない、日本なのか日本でないのかも分からない島での暮らしが、毎日続くのだった。
夏前ごろから、待ちに待った引き揚げがあるらしいという噂が広まった。
終戦を迎えた1945年(昭和20年)8月時点では、留夜別村には2500人ほどの人がいた。それが2年後の47年春段階では550人程度になっていたとされる。多くは終戦直後、冬に流氷で海が閉ざされるまでの間に北海道に逃げた、もしくは逃げようとしたことによる人口減だ。
1946年以降はその550人で暮らしてきた。今回その全部が引き揚げることになるのか、一部なのか、それはどうやって決まるのか、引き揚げはいつなのか、何も分からず、疑心暗鬼だけが募っていった。
引き揚げ時、荷物が制限されるだろうことは、みんな何となく分かっていた。そこで、それぞれの家では人数分のリュックを用意し、そこに大事なものや衣類、食料などを入れておいていた。
7月下旬、ソ連側から引き揚げ命令が出された。
吉五郎一家、真木本家、本川家など礼文磯中心部の家は軒並み残留だった。
「ダメだったか」
ストーブの前で腹を温めながら、吉五郎は肩を落とした。
酒を飲みに来たオロージャが慰めてもしばらくは無気力になっていた。
この時引き揚げ命令が出たのは、留夜別村では全体の半数弱に当たる252人。礼文磯では東の端の地区がまとまって引き揚げることになったようだった。
真木家の家督を相続したものの、本家からは出て礼文磯の西側で暮らしていた福造一家もその中にいた。
福造は終戦時、老登山神社の氏子総代だった。ソ連軍が入ってくると、いち早く御神体を取り出し、自宅に隠した。社は間もなくソ連軍によって壊されてしまったが、福造の機転で御神体だけは守ることができた。
この引き揚げの時に、今度はその御神体を北海道に運ぶことにした。
引き揚げの途中に荷物検査があるらしいことは、みんな薄々知っていた。しかし、実際にどのタイミングでどのようにして行われるのかは、誰も知らなかった。
用心深い福造は、娘で9歳ごろの智子のリュックの底に御神体を忍ばせ、検査をくぐり抜けた。御神体は1948年(昭和23年)1月、根室の金刀比羅神社に正式に遷座された。
いち早く島から引き揚げることができたとはいうものの、この時の引き揚げは悲惨なものだった。
国後から樺太・真岡への船でも船倉に収まらず、甲板にあふれた人がいて、寒風にさらされた。真岡の収容所には貧弱な食料と、暖房もない中で2カ月も置かれた。函館に向かったのは11月から12月。ここでも収容できる数を超える人数が船に詰め込まれ、収容所や船内で多くの人が亡くなったのだった。
※物語を通して読める本はこちらから購入できます