9 涙のぼたもち

 礼文磯では、1945年(昭和20年)8月15日の終戦を、ほとんどの家がそこで迎えたが、占領前に北海道に脱出した家もあった。

 例えば2軒隣の矢野家だ。

 矢野家では北海道側の泊村に親戚がいたため、礼文磯の家を捨ててみんなで泊村に向かった。それも家族バラバラになってだ。泊からそれぞれ小さな船に乗せてもらって北海道に渡った。最終的に釧路で家族全員落ち合うことができたが、それは終戦後しばらくしてからだったという。

 でもそのように行動できたのはごくわずかだ。少ないとはいえ家や浜もあれば船もある。そう簡単に礼文磯を捨てて北海道に渡ることはできなかった。

 それでもソ連軍が入ってくると、根室に逃げる家が次々と出てきた。

 地区で丸ごと逃げるというところもあったようだが、礼文磯ではそれぞれの家ごとに行動した。人伝てに運んでくれる船を頼み、荷物を浜に隠しておいて、夜に紛れて小舟で荷物と人を積んで沖に出る。待っている船に乗り移り根室に向かう。大部隊こそいないが、ソ連軍は要所要所で監視している。見つかると銃撃されることもあるため脱出は命がけだ。

 朝になると隣の家の人がいなくなっていたり、どこかでは船が転覆して一家みんな亡くなったなどという噂話が伝わってきたりもした。

 近所の人が逃げる時には、みんな脱出の手伝いをした。村道に見張りに立ったり、舟で荷物を運んであげたりする。警戒中のソ連軍の銃声が響く中、ヒヤヒヤしながら送り出した。

 10月に入ってすぐ、隣の新田家の主人が吉五郎を訪ねてきた。

 「うちも根室に逃げることにしたよ。山中さん、せっかく建てた家だ。良かったら使ってくれ」

 そしてその日の夜、新田一家は本当に礼文磯を去っていった。新田三郎先生も一緒だ。

 新田家の家は真木家の小屋から西に50メートルぐらいしか離れていない。木造平屋で2年ほど前に新築されたものだった。居間の他に部屋が3つあり、どの部屋にも畳が敷いてあった。さらに風呂も家の中にあった。

 みんな喜んで引っ越すことにした。

 引っ越しとは言っても、持っていくものはそれほど多くない。布団と衣類、炊事道具、そして米俵などの食料だ。

 家に入ってみると、主な家財道具は船に積んでいったようだった。

 しかしハレは部屋の1つに、大きな桐の箪笥があるのを見つけた。大きすぎて持っていけなかったのだろう。

 真木家には桐の箪笥などというものはない。ハレははなに頼んで、その一番下の段を自分専用として使わせてもらうことにした。

 ハレはハマ子に言った。

 「ほら、浜で遊んでてこんな家に住みたいねえって言ったろ。本当になったなあ」

 それからしばらくしたある日、はなは朝から張り切っていた。

 とっておきの小豆と砂糖を煮て餡を作る。普段は吉五郎しか食べない白米を惜しげもなくふかし、スリコギでついて軽い餅状にし、その上に餡をまぶす。

 1個がこぶしほどもある大きなぼた餅を、はなは1人で作った。10人分だから3、40個もあっただろうか。

 白米や砂糖を惜しげもなく使ったのには理由がある。

 国後と、礼文磯と、明日でお別れするのだ。

 礼文磯から度々人を運んでいた船に、吉五郎一家が乗れることになったのだった。

 隣の泊村では9月中旬、ロシア兵の強盗に入られた村長が撃たれて亡くなるという事件が起こった。礼文磯では住民の脱出が続いており、ソ連の監視も厳しくなってきていた。もう一刻の猶予もならなかった。

 数日前からみんなで荷物をまとめた。

 船に乗せられるものは限られている。

 米などの食料、衣類、布団、鍋・釜。

 荷物は夜に運び、新田家の浜に小山のように積み上げた。カモフラージュのために昆布をたくさん上にかぶせておいた。

 このとき米はまだ15俵ほども残っていたが、そんなに積む事はできない。置いて行くしかなかったが、せめて食べられるだけ食べて行こうというはなの考えで、脱出直前の「ぼた餅パーティー」となったのだった。それも長く住んだ小屋で。

 夕方。

 ぼたもちはすでにいくつかの皿に山盛りになり、四角い食卓と、隣のちゃぶ台に並べられている。その周りには子どもたちが座っている。

 いつでも食べられる状態だが、みんなご馳走を前に箸もつけずに待っていた。

 食卓に吉五郎がまだ座っていない。

 この日、急に地区の集会があり、夕方少し前から出かけていた。何が話し合われているのか、家族は何も知らなかった。

 潔や伸義はとても待ちきれない。ぼた餅を皿に取って、吉五郎の帰りを待っているふりをしながら、ペロリとなめ、端をかじりしてははなに叱られていた。

 潔と伸義は何か食べるというといつも競争する。俺は10個食べた、いや俺は11個だといった具合だ。潔は伸義より6歳も年下だが、こんな時には一歩も引かなかった。

 2人とも今日は存分に競争するつもりで待ち構えていた。なのにいくら待っても吉五郎は帰ってこない。

 ぼたもちのあんこが白く乾いたころ、やっと人がやって来る音がした。

 ガラッと戸が開いた。吉五郎だった。

 「だめだ。根室には行けなくなった」

 家に入るやそれだけ言って、どんと座り、あとはしょげ返っている。

 集会はソ連軍が開かせたものだった。

 「もしもこれ以降、地区から逃亡者が出たら」

 軍服を着た将校が、みんなを見回しながら言ったのだという。

 「残った地区の住民は皆殺しにせよという命令が、本国から出された。残った人を殺させていいなら見捨てて逃げよ」

 その言葉はただの脅しかもしれないし、本当の命令なのかもしれないが、それは判断がつかなかった。集会の後で住民だけで相談したが、見張りを立てたりするなど、逃げる人をみんなで助けることは、今後は難しいという結論になった。小舟で出て沖で船に乗り移るという面倒な作業が必要な礼文磯では、そうなれば脱出は相当難しくなった。

 「家族は1つ。全員で動かなければダメ」

 矢野家のように根室に近い泊に行き、バラバラにでも小さな船で北海道に渡って、向こうで合流するという方法は、はなが絶対に認めなかった。

 「春まで待てば、逃げる手が見つかるかもしれない。それまで待つしかない」

 吉五郎がぼそっと言った。

 みんなは泣きながら乾いたぼた餅を食べた。甘いぼた餅が、なお甘く感じられた。潔も伸義も競争などせず、黙々と食べた。

 それからみんなで、浜に置いた荷物を新しい家に運び込んだ。

 ▼第3章抑留 1「マス釣り」に続く

 ▼連載第1回 プロローグ「さらば茶々山」へ

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