1943年(昭和18年)6月10日の午後。
克義、ハレ、潔、ハマ子の4人が、約5キロ離れた乳呑路まで歩いていた。
「抱っこ、抱っこ」
3歳のハマ子がすぐせがむが、ハレが叱りとばして引っ張っていく。
10日ぶりではなが帰ってくる日なのだ。
はなは澄子を連れて根室に渡っていた。
根室に住むはなの母・ヨネの具合が悪く、様子を見るためだったが、澄子は生後すぐ足がむくむようになったため、それを医者に診てもらうということもあった。
4人は船着場にたどり着いた。しばらく待っていると、沖に着いた根室からの定期船からの艀が入ってきた。
降りてくる人を順番に見ていたが、最後の客が降りてきてもはなの姿はなかった。
「礼文磯の方かもしれないな」
引き返して、今度は礼文磯の船着場に向かう。家からは逆の方向になる。
またハマ子を叱りとばしながらたどり着いたが、やはりはなたちはいなかった。
数日間、4人は船着場を行ったり来たりしたが、はなは帰ってこない。そのうち、根室から電報が届いた。
「ハハシス、オクレル」
はなの母、ヨネは留夜別村で夫・高原理八と死別してから再婚、根室の街中で旅館を営んでいた。そのヨネが急死したのだった。
それから1週間ほど経って、やっとはなと澄子が帰ってきた。
はなの帰りを最も待ちわびていたのは、10歳、初等科4年生で家族7人分の家事を1人で切り盛りしたハレだった。
もともと10日程度のはずが都合3週間もはなが家を空けてしまったのだ。ハレが普段している家事の手伝いは、妹の子守、洗濯、掃除、食器の片付け、裁縫で、料理ははながやっていた。何より吉五郎の世話については、はなは子どもたちには一切させなかった。
はながいない間、幸いにも吉五郎に大事はなかったが、普段の仕事に加えて3度の食事を準備するのは大変だった。それでも米を炊いたりジャガイモを茹でたり、魚を焼いたり簡単な味噌汁を作ったりと、何とかやってきた。帰って来たはなの姿を見た時には、ハレは本当に泣きたくなった。
「国後に帰るな、とばあちゃんから言われたんだよ」
2人で洗濯をしていて、はなはハレに根室での話をした。
母ヨネは、少し前に軽い脳卒中を起こして体調を崩してはいたが、はなたちが根室に着いた時はまだ、命に関わるような悪い状態ではなかった。
ヨネと、再婚相手の坂本直次郎は、はなと澄子にとてもやさしくしてくれた。
2人に会ったのははなが吉五郎と所帯を持った時以来だから15年ぶりぐらいになる。
はなは初めて、母親に国後での生活ぶりをゆっくりと話した。7人の子どもたち。おんぼろ小屋。昆布漁の生活。吉五郎の体調。生活が苦しいことを愚痴った。
「そんな貧乏暮らしをするぐらいなら、もう礼文磯には帰らずこっちにいればいい。そうでないとお前が早死にしてしまうよ。子どもも澄子がいるからいいじゃないか」
「そんなこと言ったって、6人も子どもを残してきてるのに帰らないってことができるはずがないじゃないか」
こんな問答を何度も繰り返した。
2週間ほどヨネを説得して、はなは国後に帰ることにした。
「澄子も、『留子』にすれば本当にこれで止まったかもしれないけどな。帰ればまた子どもができちまうよ。もっと大変になるのによお」
ヨネは澄子をなでながらため息をついたが、もうはなを止めはしなかった。これももってけ、あれももってけ、と食べ物や着るものなど色々持たせてくれた。
そして明日は船に乗るという時、ヨネは2度目の卒中に襲われ、そのまま逝ってしまったのだという。葬式をし、身辺の整理をしてやって、やっと帰ってきたのだった。
「お前たちがいるのに、帰らないなんてできないだろ。それに」
洗濯物を絞りながら言う。
「家族は1つ。絶対に離れちゃいけない、離しちゃいけないんだよ」
はなは自分に言い聞かせるように話した。
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