9  9人もいた

 1968年(昭和43年)2月、盛岡に住む良雄のもとに一通の手紙が届いた。  釧路の坂本源蔵からだった。  「しゅっこ、大幸が岩大を受けに来るってよ」  手紙を開いた良雄が秀子に教えた。

1 別離

 1951年(昭和26年)が明けた。  正月気分は全くない、寒々しい元旦だった。  子どもたち10人だけになった真木家だが、生きていかねばならない。

6 はな

 1950年(昭和25年)12月18日。  夜、ハレはいつものように、はなのベッド脇の床に敷いた布団で眠っていた。  何か呼ばれたような気がして、目が覚めた。

5 朝のおつとめ

 1950年(昭和25年)秋。大きな病院に入院しても、はなの病状が良くなることはなかった。  医者の説明では、はなは「心臓弁膜症」だった。心臓の機能が落ちることで血液の循環が悪くなり、息切れ、むくみ、腹水などが起きる。血...

3 盛岡へ

 1950年(昭和25年)6月。吉五郎の死がよほど堪えたのだろう、はなは寝込んで起きられなくなった。  医者に往診してもらうと、身体がむくんでお腹に水が溜まっているようだという。村役場に相談し、すぐ戸田の診療所に入院する...