2003年(平成15年)8月27日、午前6時33分。
潔は55年ぶりに礼文磯の浜に立った。
この浜を後にするとき、やせて小さかった13歳の少年は、67歳になっていた。
墓参団の15人ほどを乗せた小舟が砂浜に乗り上げた時、潔は補助の手も待ちきれず船から浜に下りた。
涙はない。
「来たぞおっ」
ガスに煙る爺爺岳を見て思わず叫ぶ。
そして今度は太平洋の方を向き、辺り構わず一人で万歳三唱をした。
国後を去ってちょうど55年。
吉五郎・はなはもちろん、良雄もすでにこの世にいない。伸義さえも2カ月前に逝ってしまった。
潔の叫びは、その4人に、そして国後に眠る2人の姉妹に向けられたものだった。
今回の墓参団には、大の仲良しの本川喜充、2軒隣で終戦前に脱出した矢野浩二朗も偶然いた。みんなで思い出しながら浜を歩く。
そこにふるさとはなかった。
それでもそこは、紛れもないふるさとだった。
住んだ小屋、渡った橋、通った学校も含め、街は一切消えていた。
ただ1本、真木家の小屋の裏に立っていた、木を2本継いで立てた電信柱だけが、遠くにはっきり見えていた。
昆布を干した広い浜は、背丈ほどの草木に覆われて一面緑の原野となっている。
小屋があったところまで行きたいが、ヒグマの危険もあって、海沿いの旧村道から奥には行かせてくれない。
村道際にあった礼文磯国民学校の跡地に行くと、藪の中に奉安殿の基礎があった。周りには白い水仙が群生して花を咲かせていた。
高い崖になっていた本家の岬は、その後の侵食や地震でなのか、なだらかに変形していた。
礼文磯のある国後島の東側はロシアでは自然保護区とされており、ロシア人も住んでいない。爺爺岳は1973年以降何度か噴火し、裾野には大量の火山灰が降った。地震も多く、そのせいなのか礼文磯でも本家の岬のように当時と海岸線が大きく変わったところもある。
しかし、家の前の浜は、まったく変わっていなかった。
浜の奥、潔たちがよく魚を突きカニを獲った「三角岩」は、当時の形のままそこにあった。真木家の舟着場は、当時と同じようにいつでも舟が出入りできるようだった。
川が海に注ぎ込むところでは、マスが群れをなして集まっていた。
30人ほどの墓参団は、浜沿いに礼文磯の西の外れまで歩き、そこで高台に登った。
礼文磯墓地は本当はさらに数百メートル山に入った所にあるのだが、すでに森になっていてよくわからない。辺りにはヒグマの歩いた跡があり、ロシア人ハンター2人も遠くには行かせてくれない。
高台にプラスチックの柱を1本立て、そこで法要を行う。一緒に上陸した僧侶が読経をあげた。線香の匂いが辺りに漂っていく。
潔は手を合わせて拝んでから、ガスが晴れて奥にそびえる爺爺岳を見つめた。
雲が流れていく。
海からの風が、あの頃と変わらぬ潮の香りを運んできた。そしてそれは、原野と化したふるさとの草木を、どおっと揺らしながら吹き抜けていった。
完
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