5 独り立ち

 1954年(昭和29年)。

 年が明けてすぐ、戸田小学校で演説会が開かれた。

 弁士は阿部千一。

 元岩手県副知事で、自由党の衆院議員を1期務めたが、53年3月のいわゆる「バカヤロー解散」後の総選挙には出馬しなかった。そして55年にある岩手県知事選挙への出馬を目指し、県内を細かく回っていた。

 その阿部に寄り添い、切り盛りしていたのが谷村貞治だった。

 谷村貞治は61歳。東京で創業し、電信機から印刷電信機製造に発展した新興製作所の工場を郷里・岩手の花巻に移してから9年。この間、会社は岩手県内屈指の企業に育っていた。

 谷村は社長業の傍、政治にものめり込む。この時も阿部を県知事にするために県内各地を巡るのにも付いて行き、市町村長や地域の有力者に念押しして回っていた。

 戸田を訪れた時、2人は役場で村長と会って協力を求めたが、その時の雑談で谷村は村長にこう言った。

 「ここに有望な若いものがいたら、うちで雇ってやりますから」

 その話をいち早く聞きつけたのが克義だった。

 克義はこのころ、村の職員として区画整理事業の測量の仕事をしていた。阿部が戸田に来ると聞いて演説会も聴きに行っていた。

 克義はすぐさま、長文の手紙をしたため、谷村に直接送った。

 国後で生まれ、成績優秀で高等科まで常に主席だったこと。

 戦後3年間ソ連による抑留を経て、17歳の時に家族11人、無一文で岩手に引き揚げてきたこと。

 両親が相次いで亡くなり、兄弟だけでなんとか生きて来たこと。

 アイスキャンデー売り、醤油屋、下駄の歯作り、測量などどんな仕事でもやったこと。

 「どんなきつい仕事でも、どんな困難に遭っても、私は絶対あきらめずやり遂げる自信があります。それは私のこれまでの22年が、まさにそのような人生であったからであります。ぜひ一度、私に挑戦の場を与えて頂きたくお願い申し上げます」

 克義の手紙はこのような文章で締めくくられていた。

 数日後、克義の元に封書が届いた。

 谷村貞治の直筆で「会いたいから花巻まで来い」というものだった。

 克義はすぐ準備をし、翌日花巻に向かった。

 出てきた谷村は作業着姿の快活なおじさんという感じだったが、少し話しただけで採用を即決した。

 「お前、今日は俺の家に泊まれ。明日戸田に帰ったら、荷物をまとめてすぐ花巻に来い」

 こうして克義は、数日後には花巻に引っ越し、新興製作所で働き始めた。

 克義は「どんな仕事でも、何でもやります」と言っただけだが、ただ一つ、谷村にお願いをした。

 「できれば松尾鉱山並みの給料を下さい」

 松尾鉱山は盛岡市の北、岩手郡松尾村(現八幡平市)にあった、「東洋一」と言われた硫黄鉱山だった。標高約1000メートルのところにあるが、終戦後の最盛期には、そこに従業員4000人、家族を含めると一万数千人が暮らす近代的な街があった。鉄筋コンクリート造りの集合住宅はセントラルヒーティング、水洗トイレを完備し、近くには小中学校、総合病院がある。娯楽施設である「老松会館」では美空ひばりなども公演をし、映画は盛岡より早く新作が封切られたという。当時、そこは「雲上の楽園」とも呼ばれていた。

 克義の生い立ちと今でも兄弟を養っていることを知っている谷村は笑顔でうなずいた。

 初任給7200円。

 克義の給料が、初めて潔を上回った。

 克義が花巻に行ったすぐ後、伸義は1年前の約束通り、向かいの鍛冶屋の姪で隣町に住んでいた18歳の沢口ユキ子と結婚した。伸義は克義から土地改良事業の仕事を引き継ぎ、役場で働くようになった。

 ユキ子はハレより2つ年下だが、結婚が決まるころから「あそこは両親が死んで、大勢の兄弟だけで暮らしている家だ。年上の小姑もいるし嫁いだら苦労するよ」と言われていたらしい。結婚相手の伸義についても写真しか見たことがない。

 それでも来ると、持ち前の明るさですぐ溶け込んでいった。

 戸田の家を建てた時のお金の多くは、伸義の仕送りに頼っていた。長男の良雄はすでに葛巻に出ており、伸義夫妻が家の中心となるのは自然なことだった。

 11月、その伸義夫妻に長男が生まれた。10人兄弟の中で最初の子どもだ。

 日々育っていく赤ん坊と、母親になっていくユキ子を見ながら、ハレは16歳から5年にわたって続いてきたみんなの母親役が終わりに近づいていることを感じていた。

 妹たちも次のステージに進んでいった。

 1955年(昭和30年)4月、澄子が戸田中学校に入学した。

 そして56年(昭和31年)3月にはハマ子が葛巻中学を卒業した。

 1年生のころはひたすら大人しくしていたハマ子だが、2年生になると考えを変えた。

 勉強ができる優等生の方がいじめられないのではないか。

 一生懸命勉強した。授業でも積極的に発言した。うるさい男子には睨みを効かせる。たちまち同級生や先生からも一目置かれるようになった。

 1つの部屋に兄夫婦と住んでいるので夜遅くまで勉強できない。授業は真剣勝負だったが、分かると勉強がとても面白くなった。

 3年生になるころには1、2番を争う成績になっていた。

 しかし、家計の状況から高校には行けないことが分かってきた。それに良雄の家で手伝うこともたくさんあった。放課後、受験勉強をしている仲間を置いて早く帰る日が続いた。

 「真木、お前が早く帰るから、他のヤツらも帰ってしまうじゃないか。ダメだよ」

 先生からそんな嫌味も言われ、泣きながら帰ることもあった。

 自分だって勉強したい。でも高校に行けないって分かってるんだからしょうがないじゃないか。

 やり場のない思いを抱えながら中学3年の冬を過ごし、3月から盛岡の化粧品店に住み込みで働き始めた。

 ところが、店よりも店主の子どもたちの子守りに追われる毎日だった。

 4月末ごろ、ハマ子の元に克義が現れた。

 「あんちゃたち3人で、手分けして妹の面倒を見ることにしたんだ。俺はお前の面倒を見ることにした。どうだ、花巻に来ないか。お前が勉強したいなら、定時制の高校に行かせてやるぞ」

 また勉強できる。

 ハマ子は二つ返事で花巻に行くことにした。

 長屋のようなところに克義と住み、5月から県立花巻南高校の定時制に通い始めた。朝飯を食べると新興製作所の下請けの会社に行って夕方4時まで働き、その後高校に行って夜九時ごろまで勉強した。

 真木家の兄弟姉妹の中で、高校に通ったのはハマ子が初めてだった。

 忙しいが充実した生活が始まった。

 同じころ、22歳のハレに縁談が持ち込まれた。

 小学校も卒業しておらず中学には通ってさえいない。多感な青春時代も母親役に忙殺されてきた。兄弟以外の男性とは店での応対以外話したこともほとんどない。しかし、細身でスラリとした体型に、自分で縫った大好きな水玉模様のブラウスやスカートを着ている22歳のハレは、自分で思う以上に美しい娘に成長していた。

 前年、戸田村は隣の伊保内村・江刺家村と合併し、九戸村となっていた。その伊保内の足立家から、三男・政次郎の嫁としてハレを迎えたいという話が来たのだった。

 政次郎は「木炭検査員」という県の職員で、その時は盛岡に住んでいた。結婚するということは盛岡に行くということで、その後も県内の木炭産地を転勤して回る政次郎についていくこと意味する。しかし盛岡には政次郎の姉も住んでいて、ミシンを使った仕事をしているという。大好きな裁縫で、ミシンを教えてもらえることはとても魅力だった。

 妹たちから遠く離れることになるが、伸義・ユキ子夫妻が家を仕切っているのにいつまでもいるのは却って邪魔だと思うことにした。

 ハレはその縁談を受けた。嫁入りは10月にすることになった。

 ▼第6章1人じゃない6「大幸が来た」に続く

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