1944年(昭和19年)7月下旬から昆布漁が始まると、午前中は潔だけが小屋の居間に置かれ、布団に丹前を着てストーブの傍に横になっていた。熱がやっと下がり、お腹も落ち着いてきたのは8月に入ってからだった。
潔は、昼間の調子のいい時には漢字の書き取りをしたりできるようになった。
「そろそろお粥をやめてご飯にしようかね」
はながそう言ったのは8月中旬に入ってからだ。ご飯を食べられるようになってから体調は急回復した。外にも出られるようになった。
「町山さんのお父さんが海に落ちた」
8月下旬のある日、潔は兄たちから聞かされた。
町山さんは真木家から数百メートルほど西に住んでいた。夫婦と小さな女の子の三人家族で少し前に引っ越してきた。昆布漁の経験もないようだったが、家と浜、船を借りて、見よう見まねで始めた。
そのお父さんが、学校前の海で昆布を採っている時に舟から落ちたのだった。
前の日、舟に櫓をつないでいるロープが切れてしまった。代わりのロープを用意するのを忘れて、次の朝、慌てて奥さんが藁をなって作った縄を結びつけて漁に行ったところ、漕いでいる時にその縄が切れ、海に落ちてしまったのだという。
当時、そこで昆布を採っている舟がいくつかあり、碇を上げて集まった。さらに知らせを聞いて多くの人が舟を出し、町山さんを探した。真木家でも良雄と伸義が海に出ていた。
「でもな、夕方まで探したけど見つからなかった。一旦沈むと浮いてくるのにしばらくかかるからな」
2人はそんなことを話した。
その日から、礼文磯の人たちは交代で夜通し浜の数カ所で焚き火をした。
落ちた町山さんが帰ってくるのに浜の方向が分かるようにだった。
1週間後。
潔たちはその浜で昆布を拾っていた。
台風の影響で海は荒れていた。
そしてそのおかげで浜には多くの昆布が打ち上げられていた。
台風が来ると漁には出られないが、代わりに波に乗って大量の昆布が浜に寄ってくる。それを集めて干すのだ。
大体乾いたら、そのまま火をつけて燃やす。そしてそれを一晩そのままにして冷やす。すると燃えた昆布は灰のようにはならず、白っぽい塊になった。大人たちはそれを藁のカマスに入れて出荷した。塊は工場に運ばれ、精製されるとヨードとカリに分けられ、ヨードは薬品に、カリは火薬の原料になるのだが、この辺りでは塊のことを「カリ」と呼んでいた。
買い取ってもらうのではない。お国に供出するのだ。地区ごとの競争で、あそこでは何俵だしたとか言い合っていた。このころは軍馬生産のための草刈りや、軍のための木材の切り出しなどで動員をかけられることも多かった。
そんなこんなで、台風の後の浜には人が集まり、打ち上げられたり寄ってきた昆布を協力して引き揚げていた。
力に自信のある若者は、昆布を引っ掛ける金具にロープをつけて海に投げ入れ、近くに浮いている昆布を引き寄せていた。
「あっ、腕が見えた」
30メートルも投げられる一番の力持ちの若者が言った。
見たところめがけて何度も金具を投げるが遺体は引っかからない。
「これじゃラチがあかない。舟を出そう」
大波が打ち寄せる海に、若い者が5人ほど乗って舟を漕ぎ出した。
岸ではみんな手を合わせながら見つめている。
舟は波に揉まれながら、30分ほどかけて近くまで行った。乗っている1人が浜に向かって腕でバツ印をして見せた。遺体はまた海藻の渦に隠れてしまったようだった。
それでも周辺を探しているうち、大きな波がやってきた。
「危ない」
浜で見ている人から悲鳴が起きた。
船は一瞬グラリと傾いたが、次の瞬間、乗っている誰かが水の中に手を入れた。そして何かをつかんで引き上げようとしている。周りの男たちもそれを助けて、どうやら舟の上に引き上げたようだった。
舟は岸に向かってくる。
「がんばれ」
岸にいる人たちから声がかかった。
荒い波に構わず舟はまっすぐ砂浜に上がってきた。男たちが飛び降りて舟を押し上げる。浜の人たちも手伝って舟を浜に上げた。
板に載せられていた遺体を、何人かで舟から下ろした。
「探してたら昆布から手が見えたんだ。それを掴んで夢中で引っ張り上げたよ」
若者たちが説明していた。
潔は遺体を囲んでいる輪の中に入った。水死体を間近で見たのは初めてだった。
髪の毛はなくなっていたが白い顔はきれいなままだった。上半身は着ていたはずのシャツがなくなっていた。皮のベルトをしていたためズボンは履いていたが、下半身が大きく膨れていた。
少しすると町山さんのおばさんが小さな子の手を握って走ってきた。
浜に横たわっている夫を見つけた。
近くに寄って顔を見つめた。
子どもを抱きしめてわっと泣き出した。
するとほぼ同時に、横たわる遺体の鼻からバーっと大量の血が吹き出した。
潔は思わず後ずさった。おばさんも、抱きしめている子どもも驚いて声を上げた。
「いいんだいいんだ」
大人たちはみな、口々に子どもに声をかけ、奥さんに話していた。
「何がいいの」
潔ははなに小声で聞いた。
「近しい人が寄ると仏様から鼻血が出るんだよ。だからおかしいことじゃないのだよ」
はなは潔の肩に手を置いて、そう教えてくれた。
町山さんのおばさんと子どもは、しばらくしてまた引っ越していった。
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