3 岩手と石川

 夏のある晩、酔って機嫌のいい吉五郎がはなに鉛筆と紙を持って来させた。

 海が荒れて翌日も昆布漁ができそうにない夜だ。夕飯が済んでもすぐ寝る必要もなく、ランプの明かりの下、みんな揃って食卓についていた。

 吉五郎は鉛筆の芯を筆の穂先にするようにしばらくゆっくりと舐め回すと、手元の紙に何か書いた。

 「おいお前たち、これ書いてみろ」

 良雄、伸義、克義、それからはなやハレに紙を渡し、その通り書かせた。その「手本」には金釘のような字でこう書いてあった。

 岩手縣九戸郡戸田村大字戸田字晴間澤

 吉五郎の生家の住所だった。

 吉五郎は子どもたちが書く紙を見ては、自分のことは棚にあげて

 「うん、良雄は上手いな」

 「ノブはもう少し練習せい」

などと順に品評していった。

 海で働いてはいるが、吉五郎は1900年(明治33年)2月、岩手県北部の九戸郡戸田村(現九戸村)で生まれた。東北の岩手側を南北に貫く北上山地の北端、海の全くない山村だ。姓は「山中」という。

 日露戦争が始まる4年前のことだ。

 二十歳前に戸田を出て、国後島・留夜別村礼文磯で同郷の真木午之助(うまのすけ)のもとで働き始めた。

 その午之助は、そのころすでに50歳を過ぎた実業家だった。

 1867年(慶応3年)5月、大政奉還の半年前にやはり戸田で生まれた。

 1891年(明治24年)9月に東北本線の盛岡-青森間が開通した後、25歳のころに近所の女性と駆け落ち同然で戸田を出た。山を越えて駅に出て青森から函館に船で渡った。そして吉五郎が生まれたころにはもう、ほとんど住む人のいなかった礼文磯に居を構えていた。造船所を営み軍用馬の生産も手がけるなど、礼文磯では最も成功した傑物で、老登山神社の氏子総代も務めた。

 「その午之助が戸田にちょこっと帰った時、オレに目を付けて国後に連れてったんだ」

 この夜も吉五郎は得々と話したが、本当かどうかは誰にも分からなかった。

 そして昔話はいつもここで終わるのが常だった。

 だが、この日は違った。

 「トッチャとカッカはその後、どうして夫婦になったの」

 ハレが二人に思わず聞いてみたのだった。

 「そんなもの、子どもが聞くものではない」

 吉五郎は怒ってはいなかったが、そうとだけ言い残して部屋の奥に引き上げてしまった。

 「どうしても何も、気が付いたら結婚することになってたんだよ」

 食器を洗いながら、はなはハレに話して聞かせた。

真木はなの唯一の写真

 はなは吉五郎より5年遅い1905年(明治38年)11月、石川県羽咋郡末森村(現在の宝達志水町)で生まれた。姓は高原といった。

 すでに日露戦争は終わっていたが、世論は講和条約に満足せずまだ騒然としていた。

 父・高原利八や母・ヨネ、兄の鉄造を含む高原一家はその後石川を出て、遅くともはなが三歳になる前の春には国後島留夜別村にたどり着いた。国後で妹の富枝が生まれた。

 しかし一家揃っての暮らしは長くは続かなかった。

 測量技師だった父ははなが七歳のときに死んだ。それをきっかけに一家はバラバラになった。

 はなと富枝は礼文磯でそれぞれ別々のところにもらわれたが、はなのもらわれた先が、父が仕事で付き合いのあった午之助だった。

 「真木の本家のばあさんがな、お手玉だとか食べ物だとか、たくさんくれたんだよ。嬉しくてな、そうしているうちにもらわれることになっちゃったんだよ」

 養女になった経緯も、はなは結婚と同じように説明した。

 はなは午之助の元で10年ほど過ごしたころ、18で吉五郎との間に最初の子をもうけた。3年後にその子は亡くなったが、同時期に良雄が生まれ、吉五郎ははなと婿養子縁組することで結婚、真木姓となった。

 1927年(昭和2年)8月。吉五郎27歳、はな21歳。時代はすでに昭和に入っていた。

 2人は結婚直後に真木家の分家となり独立した。本家の事業を手伝うことにはならず、午之助の屋敷の隣にある粗末な作業小屋と浜の一部を分けてもらい、小さな舟も2艘もらって昆布漁で生計を立てるようになった。

 「だからな、うちは誰も真木家の血は引いてないんだよ」

 「トッチャも自分のこと山中吉五郎って言うしね」

 「あれはほら、蟹工船の吉太郎おじさんと間違えられるからさ。郵便もしょっちゅう来るだろ」

 「ふーん」

 「まあ、トッチャはもちろん、山中の方が好きだろうけどな」

 月明かりの下、家の裏の炊事場で食器を洗いながら、はなは話した。

潔が描いた一家の住んでいた小屋

 一家が暮らす本家の元作業小屋は、柱や壁も真っ黒で、明治のいつごろ建てたか分からない、バラックのような小屋だった。

 北海道国後郡留夜別村大字留夜別村字礼文磯拾六番地。元々作業小屋であるため、隣の本家と同じ住所だ。

 木造平屋で間口13メートル、奥行き7メートルの約100平方メートルといえば聞こえはいいが、その半分以上は土間と作業場であり、生活の場は27畳分のスペースだけだ。

 そこを表側の板間18畳と奥側の9畳に分け、表側に薪ストーブと座卓を置いて居間とし、奥の方に畳を敷いて寝室にしていた。間の仕切りは2メートル分ほどしかなく、そこの奥まったところに夫婦が、その横に姉妹が、そして兄弟4人は居間に、とそれぞれムシロの上に煎餅布団を敷いて、薄い布団をかけて寝た。居間では男4人が布団2枚に寝たため、朝起きてみると元々の場所から動いていることもしょっちゅうだった。

 潔は初等科に入学してからは兄たちと一緒に居間で寝るようになったが、それまでは吉五郎の布団で寝ていた。

 「潔は温かくて、あんか代わりにちょうどいいな」

 吉五郎はそう言っていた。

 土間にかまどはなく、薪ストーブは調理用であり暖房用でもあった。

 屋根は柾葺で強風ではがれないよう石をたくさん載せている。壁はエゾマツやトドマツの板一枚で、所々に隙間があいている上、軒下と床下を風が自在に通り抜けた。窓は居間と土間の表側に1つずつあり、大き目のガラスが6枚、木枠ごと横に開けることができた。

 夜の灯りは石油ランプで、居間だけに吊るしてあったが、海でサメが獲れるとサメの油を燃やして照明にした。

 居間の横に17畳ほどの板間があり、その表側に引き戸の出入り口、裏側に勝手口がある。出入り口の脇の板の上には米俵が重ねてあり、奥の勝手口脇の棚には味噌や醤油、黒砂糖の甕や、小麦粉などが置いてある。

 その板間は仕切りなしで27畳ほどの土間に繋がっている。昆布漁のシーズン中、土間にはびっしりと昆布が積まれることになる。

 土間の隅に穴を掘って便所とし、ムシロを吊るして仕切ってあった。

 小屋の裏には湧き水を300メートルほど上の山から引いてきており、裏口を出て階段を3段ほど降りると炊事場がある。板で1メートル四方ぐらいの枠をつくり、そこに水が溜められていた。魚や野菜を洗ったり切ったりはそこでして、あとは居間のストーブにかけた。カレイなど、釣りで獲った生きた魚もここに入れておいた。

 飲み水はそこから甕に入れておく。しかし流れてくる湧き水は普段ちょろちょろで、雨が降ると今度は濁るため、その前に甕に汲まなければならなかった。

 引いてきた湧き水は、小屋の東側を流れている幅2メートル、深さ30センチほどの川に流れ込むようになっていて、その近くに、川の水面に接する高さで長さ4メートルほどの橋が掛けられている。橋は丸太を2本渡し、そこに横に板を打ち付けた簡単なもので、強い雨が降ったりして川の流れが増えると浮くため、両岸にロープでくくりつけられていた。その上で、毎朝ハレは妹のおしめなどを洗濯してから学校に行った。はながタラなどの大きな魚を捌く時も、この橋の上で行った。

 捌いた魚の内臓などが草に引っかかるため、川のこの辺りにはイワナがたくさん集まっている。川岸の草むらを月に一度ザルで漁ると、3、40匹も取れた。

 橋へは小屋からは下り坂を斜めに十数メートル下りて行き、渡ったところから今度は10メートルほどの坂を上ると、本家の屋敷のある敷地になる。そしてそこから100メートルほど東に礼文磯国民学校があった。

 小屋の西にはそれぞれ数十メートルずつ離れながら、新田家、矢野家、そして小川を挟んで本川家と近所の家が続いている。これらの家は浜沿いに東西に走る一本道の村道から、陸側に50メートルほど入ったところに並んでいた。家の前から村道までは白い砂浜、村道から海辺までは50メートルほどの丸い石の浜で、両方ともシーズンには昆布の干場になった。

 国後島の南側の海岸はきれいな段丘になっている所が多い。それも2段、3段の段丘が見られるところもある。

 礼文磯の真木家の小屋のある辺りは2段の海岸段丘になっており、海岸側から立ち上がる1段目の坂の途中に村道が走っており、1段目の急坂を上がり切った平地の真ん中に家々が並んでいる。家の裏側の平地は畑となっているが、奥に100メートルほど行くと次の段丘の急坂が立ち上がっている。坂を上がった次の平地からはエゾマツやトドマツの国有林になるが、払い下げを受けて開墾し、ジャガイモ畑や牧草地にしているところもあった。

 「山中さん、森さんとこでまたやってるみたいだよ」

 数日後の夕方、近所の人が小屋に寄って教えてくれた。

 「ハレ、ハマ子のこと頼んだよ。潔、行くよ」

 はなは澄子を背負い、潔を連れて外へ出た。村道を東に向かう。

 吉五郎はほぼ毎日酒を欠かさない。

 多くは小屋の中で四合瓶の焼酎や、自分でつくったどぶろくをチビリチビリ飲むが、それだけではない。

 酒のある店が、小屋から歩いていける距離に東西それぞれ一軒ずつあった。西の三上商店、東の森商店だ。三上商店はチフンベツの老登山神社入り口近くにあり菓子や雑貨が主だが、主人は老登山神社の神主も務めている。森商店は雑貨屋に旅館も営んでいたが、どちらの店も食料や酒も置いていた。吉五郎は時々そこまで行き、焼酎をコップで買って店の外の砂浜で常連客と飲む。

 はなは潔の手を引いて早足に歩いて行く。あたりが徐々に暗くなってはきているが、真っ暗になるまでにはまだ時間がある。

 30分ほど歩き店が近くなってくると、浜の方から吉五郎の大声が聞こえてきた。何を言っているかは分からない。

 「またやってる」

 はなはため息をついた。潔は声のする方に駆け出した。

 吉五郎はすべてにだらしない人間では決してない。酒さえ飲まなければ抑制的でむしろ潔癖と言っていいほどだった。賭け事は一切しない。酒以外は常に倹約を心がけ、無駄遣いをしない。そして何だろうが筋の通らないことは認めない。

 普段はそれをあまり表には出さないが、酔いが回るともう止まらない。

 あの時のお前のやり方は何だ、あの言い分は何だ、と飲み友達に絡み始める。そしてその一つ一つが的を射ているから余計タチが悪い。

 勢い喧嘩になってしまうが、若い頃から相撲でならした腕前だ。1対1では絶対負けなかった。

 潔が吉五郎を見つけた時、吉五郎は浜で仁王立ちになっていた。

 「ただの、山中吉五郎では、な、い、ぞ」

 おののいている客を前に、大声で見栄を切って腕をまくっている。

 「山中さん、もうやめなよ」

 店主が腕を押さえ、必死になってなだめている。

 「ほら、潔」

 自分が言っても吉五郎が聞かないことを知っているはなは、物陰に隠れて潔を促した。

 「トッチャ、トッチャー」

 潔は声の限りに叫ぶ。

 吉五郎がこっちを向いた。

 「もう帰ろうよ」

 「潔か。そうか、おうおう」

 店主が腕を離すと、フラフラと歩き始めた。

 「潔、トッチャから離れるんじゃないよ」

 小声で言うと、はなは店主と客に頭を下げに走って行った。

 吉五郎はもう村道を帰り始めている。潔は後ろを振り向き振り向きしながら、吉五郎の少し後ろを歩いた。

 自分の後方に長く伸びていた影が、暗くなるにつれて薄くなってくる。

 しばらくしてはなが追いついた。

 「客の人がな、トッチャに言ったんだとさ」

 「何て」

 「山中さん、いつも飲んだくれてるのに、子どもたちはみんな何で立派なんだ、だって。そしたらトッチャが怒ったんだとさ」

 「俺、酒飲んでも絶対あんなにはならない」

 潔ははなの手を握った。

 はなは前を行く吉五郎を見ながら、何も言わず潔の手を強く握った。

 吉五郎は翌日、昆布漁に出られなかった。

 胃が痛くてたまらなくなったからだ。

 夜が明ける前から布団の中で丸くなり、腹を押さえていた。

 朝になってストーブに火が入ると、布団を居間に持ってきてその前で腹を温めた。

 昆布漁の舟には、良雄と伸義が乗った。

 胃痛は吉五郎の若い頃からの持病で、ひどい時には10日も寝込むこともあった。胃腸薬が大きな缶で買ってあって、毎食後飲んでいたが一向に治らなかった。

 腹が痛むうちは吉五郎は何も食べられないが、今回は3日ほどで痛みは引いたようだった。

 はなが用意した数日ぶりの朝食は、卵かけご飯だった。

 放し飼いしている鶏の卵を子どもたちが取ってくると、それは全部吉五郎の食事になった。海や川で獲ってくるマスやサケの卵も、しょうゆ漬けにして吉五郎のおかずになった。

 米のご飯も他の家族は朝食だけなのに、吉五郎だけが三食食べた。

 子どもたちも食べたくてしょうがないが、はなが許さない。

 「ダメだ。これはトッチャが食べるものだ」

 潔やハマ子などは吉五郎が食べている時は近くで見つめていた。残したら少しもらえるかな、と期待しながら。

▼第1章礼文磯 4「子どもたち」に続く

▼連載第1回 プロローグ「さらば茶々山」へ

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【読み方】九戸郡戸田村(くのへぐんとだむら)・羽咋郡(はくいぐん)・宝達志水町(ほうだつしみずちょう)