1942年(昭和17年)の秋、礼文磯国民学校では極秘のプロジェクトが進行しつつあった。
スタートしたのは9月17日。夏休みが終ってしばらくしたころだ。
校長が高等科の十数人を集めた。その中には1年生の伸義がいる。
校長は真面目な顔で言う。
「この学校に新しいものを造って残したいと思っている。去年から少しずつ準備してきたんだが、いよいよ本格的な作業にかかろうと思う」
ここまで話したところで、誰かが口を挟んだ。
「何を造るのですか」
校長はそれに直接答えず続けた。
「これを造るには、他の先生や初等科も含むみんなの協力が必要だ。そして、全員が毎日、放課後2時間ずつ働いたとしても、恐らく完成するのは11月、もしかしたら12月までかかるかもしれない」
伸義たちはその計画の大きさに驚いた。
「一体、何ですか」
「諸君には悪いが今は言えない。やってみて、本当にできるという見込みが立ったら教えよう。ただ、」
ここで初めて校長の目つきが緩んだ。
「みんなが喜んでくれるものだ。私を信じてくれ」
作業はその日から始まった。
まずは伸義たち高等科の男子たちが、放課後集められた。
学校の敷地と真木本家の敷地の間を、幅2メートルで3メートルほどの深さの谷を作って流れる小さな川があった。みんなこの川を「学校の川」と呼んでいた。川幅は狭いが、爺爺岳から流れてきた水は勢いがあり、年中枯れることはない。校舎から25メートルほど離れたところにその川の水汲み場があった。
校長が言うには、この水汲み場付近にダムを築き、川を塞き止めたいというのだった。
その日はまず、その水汲み場付近に転がっている風倒木や流木を片付けた。
辺りがきれいになると、初等科3年生以上全員の仕事が始まった。学校から一番近くの海岸から、それぞれ持てるだけの石を運んで水汲み場のところに投げ入れるのだ。
伸義や克義はもっこを使って大きな石を持っていく。ハレなど石を持てない女子たちは、スカートを広げて砂を入れて約200メートルの坂を運んだ。放課後の2時間、毎日作業が続いた。
二学期が始まるとすぐ、男子も女子も放課後の帰りが遅くなり、おまけに毎日服を汚して来るとあって、親の間から校長が何を考えているのか訝しむ声が出てきた。
子どもたちも親に説明できなかったため、母親に叩かれる女の子もいた。
はなも何度かハレに小言を言ったが、伸義から話を聞いていたこともあってブツブツ言う程度だった。
そのうち授業が午前中で切り上げられ、昼食後に毎日3時間の作業となった。このころには初等科1、2年生も作業に加わるようになった。潔や喜充も自分の頭ぐらいの石を抱えては、水汲み場まで運んだ。
石が積み上がってくると、水を流すための幅80センチ程度の水路が2本、簡単な板で仕切られた。それ以外のところはさらに石を積んでダムを高くしていく。
10月、高さが3メートルを超えた。
そこで、校長から次の指示が出た。学校側の水路近くに水車小屋を建てるのだ。
この場所の奥には、前の校長が職業教育のために造った燻製小屋がある。
「燻製小屋の次は水車小屋か。今度は粉でもひくのかな」
「でも米も麦も蕎麦も取れない島で、そんなもの何の役に立つんだ」
生徒たちはよく分からないまま作業にかかった。
今度は土木作業ではなく大工作業だ。高等科には大工作業の得意な者もいたが、問題は木材の調達だった。
校長は前の年から少しずつ材料を集めてはいたが、到底足りなかった。授業が終わると地域の家を回って木材を譲ってくれないか頼んで回ったが、成果は芳しくなかった。
それは当然だった。そんな木材がなぜ学校に必要なのか、校長はこの時点でもまだ口外していなかったからだ。
しばらく校長の表情が曇りがちになる日が続いていたが、ある日、やっと晴れやかになった。
その日の午後、高等科の生徒たちが何人かで、丸太を1本運んできた。隣の真木本家の造船場からもらって来たのだった。水車を作る上で一番大事な心棒が手に入った。
同じころ、2本の水路を備えたダムがついに完成した。
そこで試しに水の流れをせき止めてみることになった。2本の水路は1本が水をただ下流に流すためのもので、もう1本の、ダムの上から角度をつけて下るようになっている水路に、水車が取り付けられることになっていた。水を流す方の水路を閉じ、ダムに水を貯め、水車側の一本から勢い良く水を流してみる。
校長の指示を受けながら、伸義たち高等科の男子が木材を使い、片側の水路を閉じた。
みんな笑顔で岸に上がり、ダムを見守る。水位がジリジリ上がっていく。ほぼ満水になったところで、水車側の水路から勢い良く水が流れ出した。
「やった」
みんなが歓声を上げたとき、ダムを支えている木材がグラッと動いた。そしてドーンという音とともに、石積みを含め今まで積み上げたものがすべて、一気に崩れた。
ダムの枠組みになっていた20本の木材は川を流れ下り、200メートル下流の海岸まで達した。水汲み場は石が散乱し、さながら津波に洗われたようになった。
生徒たちは呆然と立ち尽くしている。
「やはりセメントがないのは痛いな。もっと石をしっかり積まないとダメだ。けがをした者がなかったのが不幸中の幸いだが」
校長は生徒たちを見回して、努めて明るい声でまた話しかけた。
「さあ、もう一度石を積み上げよう。今度は崩れないものを造ろう」
生徒たちは流れた木材を海岸から運び、崩れた石をもう一度積み直した。土台からしっかり組み上げ、2週間ほどで高さも4メートルになった。今度は水をせき止めてもビクともしなかった。
そうしているうち、さらに他の木材も、ノツカにある製材工場からもらえることになった。
10月下旬、礼文磯国民学校では初等科・高等科合同の遠足が行われた。10月の国後にしては晴れて暖かな日だった。
礼文磯から西に村道を歩いていく。老登山神社への入り口の鳥居の前でみんな一礼する。チフンベツの大浜を通り、サルカマップで道の横に積み上げられた丸太の山を抜けて行く。
大きな川に出た。ノツカ川だ。20メートルほどの木の橋を渡って200メートルほど行くと目的地の製材所に着いた。
広い敷地で弁当を食べ、男子は工場探検やかくれんぼ、女子は花を摘んだりして遊んだ。
日が傾く前に帰ることになったが、みんな、持てるだけの板や垂木を抱えての帰り道だ。特に伸義たち高等科の男子は、重さ20キロ以上の板材を交代でかついで運んだ。
材木が揃うと、大工仕事ができる高等科の生徒を中心に作業し、直径2メートルの水車や水車小屋を作り始めた。
11月に入ってすぐ、水車小屋の棟上げが行われる日が来た。
小屋の土台となる木材はすでに置かれており、それに柱を立てていくことになっていたが、この日に限って生徒たちは動かない。そして一人の生徒が校長先生に向かって叫んだ。
「先生、この水車小屋と水車は何のためのものですか」
「作業を始める時、先生は作ることができると分かるまでは話せない、と言われました。でも、もうここまで来ました。教えてください」
「そうだ、そうだ」
伸義も声を上げた。
校長はニコニコしながら、しかし何も答えない。
「みんな、先生が教えてくれないのなら、教えてくれるまで作業するのはやめよう」
「そうだやめよう」
みんなの声が大きくなり、10名ほどの生徒が校長に詰め寄った。
「電気だ」
校長が口を開いた。
「ここに発電所を作るんだ」
生徒たちは何も言えずに次の言葉を待っている。
「川をせき止めて造ったダムのこちら側から水が流れる。それでここに付ける水車を回す。水車が回るとこの辺りでベルトが回り、そしてそれがここの発電機を回す」
校長は身振り手振りで部品の位置関係を教える。
「ここに配電盤を取り付ける。電線を学校に引いて明かりを灯す。諸君に幻燈を見せることもできる。学芸会で舞台にライトを灯したり、ブザーを鳴らすこともできる」
みんなの顔がだんだんと紅潮してきた。
電気
それは辺鄙で貧しい礼文磯に、突如、高度な科学文明が舞い降りたような、そんな言葉だった。
校長に詰め寄った生徒が叫んだ。
「さあ、建て前だ。頑張ろう」
「おう」
みんな張り切って作業に戻った。
11月23日午後、準備はすべて整った。
一部の高等科の生徒を除いて、みんな講堂にいる。天井に吊り下げられている電灯を、今か今かと睨んでいる。
学校の川ではダムから落ち、水路を勢い良く流れる水が水車をグルグル回している。最後の点検を済ませた校長が水車小屋の中の配電盤のスイッチを入れた。
講堂の電灯が、ゆっくりと、しかし赤々と灯った。
「バンザイ、バンザイ」
見上げる子どもたちは万歳を繰り返した。
9月に作業を始めて2カ月。千島の学校で初めて電灯が点いた瞬間だった。
数日後の晩、校区の住民たちが続々と学校に集まってきた。発電施設の落成祝賀会があるのだ。
吉五郎以下、真木家も学校に行き、講堂で近所の人たちと床に座った。良雄・伸義・克義は祝賀会準備に駆り出されている。
講堂には白熱灯が2つ灯っており、ランプなどとは比べ物にならない明るさだ。大人たちも灯りの下に行っては大騒ぎしながら見上げている。
最初に校長があいさつした。
校長は、前年の1942年(昭和16年)9月から構想を立て、留夜別村の村長にも相談、援助の約束を取り付けて準備にかかっていた。
しかしその3カ月後には太平洋戦争が始まり、時勢は急速に統制色を強めていった。セメントの入手などもってのほか。民間の2、3の缶詰工場などを除けば国後島内のどこにもないのに、礼文磯などという小さな集落の国民学校で電気を起こすなどということは、村長が援助を約束していても簡単なことではなかった。「このご時勢に」という批判が一度出ればたちまちご破算になることは容易に想像できた。
そのため着工してからもしばらくは、校長は地元の住民はおろか、同僚の先生にも真意を話すことなく作業を進めさせた。
しかし木材の調達は地域の人々の協力なしには難しい。ここまできて初めて、校長は同僚の先生に発電所建設を打ち明け、さらに木材の調達のために訪れた家にも事情を話して協力を仰いだ。
造船場があり、豊富に木材を扱っていた真木本家に頼みに行った時も、校長の構想に大賛成した主人の庄司が、快く水車の心棒となる丸太を提供したのだった。
ただ、地域全体が協力的だったかというと、必ずしもそうではなく、むしろ懐疑的な見方の方が強かった。一度ダムが崩壊した時には、事情を知る人たちが「だから言わんことじゃない。電気なんか起こせるものか」とこそこそ言い合っていた。
だから、本当に電灯が点いた時、地域全体が驚いたのだった。
校長は話の最後のところで、ステージの脇の方に合図をした。
主力として工事を担った高等科の10名ほどがずらりと並んだ。小さな伸義もそこに立っている。
「彼らがいなかったら、この大事業は到底なしえなかったでしょう。この子たちに大きな拍手をお願いします」
「よくやった」
大きな拍手が沸き起こった。
みんな恥ずかしそうに身体をもじもじさせている。しかし、どの顔も誇らしげだった。
「ノブ、ノブ」
吉五郎が大声で伸義を呼びながら拍手をしている。はなやハレ、潔も一緒になって手をたたいた。
落成祝賀会では、夜、余興として芝居が行われた。校長は機械だけでなく、歌舞音曲が好きで、芝居も自ら指導していた。
始まる直前、電灯が灯る講堂に、電気式のブザーが鳴り響く。ざわざわしていた人々が驚いて静かになる。客席の灯りが落ち、ステージだけが照らされる。
演目は青年学校や高等科の生徒らによる「国定忠治」。
赤城山の麓に1人で下り、捕り方に囲まれた忠治のピンチの場面から始まると、その忠治に十手を持って飛びかかったのが良雄演じる目明しの「御室の勘助」だ。
「この椎木を伝って南に行けば赤城の山への一本道だ。それっ忠治を逃がすな」
捕まえるふりをしながら逃げ道を教える。
昔の恩を忘れず忠治を助けた勘助の機転は、しかし忠治には伝わらない。忠治は子分で勘助の甥の浅太郎に勘助の首を取ってこいと命じる。
「あんちゃの首が取られるのか」
潔は隣に座るはなの服をぐっと握って見ている。
訪ねて来た浅太郎に、勘助は後ろから切られる。しかしそれは覚悟の上だった。
「俺の首を持って、早く山へ帰れ。1人残される勘太郎をよろしく頼んだぞ…」
良雄は自分で腹を切って倒れた。
その瞬間、ステージ上の灯りが明滅し、そして真っ暗になった。
客席からはどよめきと、それから割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
良雄が消えた後、近くで寝ていた勘太郎に扮する克義が目を覚ます。
「ちゃん、ちゃんがいない」
「おう勘太郎、俺と一緒に山へ行こう」
「いやだ、ちゃんと一緒にいる。ちゃんはどこにいるの」
「ちゃんは…ちゃんは遠くに行ったんだ」
「ちゃん、ちゃん」
泣く克義をおぶって、浅太郎役は舞台の袖に消えていく。
はなやハレは手ぬぐいで涙を拭いていた。
再び拍手が起こり、吉五郎や潔たちは何度も拍手した。ステージ横で灯りを操作していた校長は、それをニコニコと笑いながら見ていた。
学校に電気が来て、楽しみが増えた。
校長は毎月、子どもたち幻燈を見せてくれた。子供向けニュース、特に植物や鳥類、魚類などの自然観察ものが多かった。
それから、乳呑路から学校まで電話を引いた。2年前の1940年12月には乳呑路で電話の取り扱いが始まっており、翌41年には交換業務も始まっていた。その乳呑路の郵便局舎から礼文磯国民学校まで、電信柱を立て電線を引き、学校に電話を据え付けた。
普段使うことはあまりなかったが、地域で急病人が出た時などに威力を発揮した。
※この発電所建設に至る流れについては、「千島教育回想録」(1977年、千島教育回想録刊行会)に収められている小川薫さんの「ダムと発電所」に従っています。同書に掲載されている「主力メンバー」とされる礼文磯国民学校高等科1年生の写真に、真木伸義のモデルである伯父の眞下信義が写っています。ただ、取材を本格的に始めた時にはすでに信義伯父は亡くなっており、詳しい話を聴くことはできませんでした。なお、この発電所プロジェクトについては、「北海道教育史」(道立教育研究所編)にも、若干の言及があります。
※物語を通して読める本はこちらから購入できます