1942(昭和17年)7月10日。
爺爺岳の南西側の裾野にある留夜別村チフンベツの老登山神社には、朝9時ぐらいから人が続々と集まって来た。
今日は年に一度の例祭の日だ。神輿なども出るが、みんなの目当ては奉納相撲大会だった。
海岸線から数百メートル上がったところのエゾマツやトドマツの森を切り開いてつくられた境内は、草がきれいに刈られている。その隅に赤土を盛り上げた土俵が作られていた。周りはすでに100人ほどの見物人で埋まっている。
潔は白パンツ一丁で土俵の西側最前列に座っていた。
6歳。チフンベツの隣の礼文磯にある礼文磯国民学校初等科の1年生だ。他の仲間と一緒に、取り組みが始まるのを待っている。
潔の家族は土俵南側の前の方に陣取っている。
いつもと違ってキリッと結い上げた髪に着物姿の母・はなが、潔の2人の妹をあやしながらチラチラ見ている。その後ろにいるのがすぐ上の姉・ハレだ。三つ編みのお下げ髪、長袖ブラウスにズボン姿でちょこんと正座している。父の吉五郎は短髪、背広に白シャツ、ズボン姿で、もう焼酎瓶とコップを手にしている。
潔の後ろの方から、兄の克義の甲高い大きな声が聞こえてくる。
その上の兄2人は姿が見えない。
真木吉五郎(まき・よしごろう)の一家は、夫婦と子ども7人の9人家族だ。
吉五郎42歳
はな36歳
良雄(よしお)15歳、礼文磯青年学校1年
伸義(のぶよし)13歳、礼文磯国民学校高等科1年
克義(かつよし)11歳、礼文磯国民学校初等科6年
ハレ8歳、同3年
潔(きよし)6歳、同1年
ハマ子2歳
末っ子の澄子(すみこ)はまだ生後9カ月だった。
土俵は初等科の1年生からだ。
勝ち抜き戦で下級生は3人、上級生は5人続けて勝つとノートや半紙、鉛筆などの文房具がもらえる。男の子にとっては運動会と並ぶ大イベントだ。
夏とはいえ、気温は12、3度しかない。みんな手で腕や胸をさすったりしているが、特に1年生は落ち着きがない。無理もない。たくさんの人の前で初めて相撲を取るのだ。身体の大きな者でも目をきょろきょろし、今にも泣きそうになっているのもいる。
潔は土俵の向こう側に座ってこっちをにらんでいる2年生の尚武と目が合った。潔はニヤッと笑い返した。
1年前のことだ。まだ初等科に入る前で、潔は土俵の近くに立って取り組みを見ていた。
「おいボウズ、お前も出てみるか」
「うん」
大会を仕切っていた青年学校の生徒に言われるままに、1、2年生に混ぜられて相撲を取ることになった。
その場でパンツ姿になって土俵に上がると、口をへの字にして出てきたのが1年生の尚武だった。
「一緒に立てよ。それ、はっけよい」
行司は潔の方を向いて優しく声を掛けたが、その声と同時に勢い良く立ったのは潔の方だった。まっすぐ頭からぶつかっていくと尚武の胸に当たり、尚武はあっけなく尻をついた。
客席がドッと沸いた。
尚武は土の付いたパンツをたたきながら、目を潤ませて潔をにらんだ。
「覚えてろ」
土俵を降りるとき、尚武は小さくつぶやいたものだった。
尚武のやつ、それからしばらくはこっちが挨拶をしても知らんぷりしてたっけ。
怖い顔をしている尚武を見ながら、潔はふふっと笑った。
土俵が始まった。
潔はガチガチの相手に、ドンと頭からぶつかっていく。押し出し、突き出し、また押し出し。あっけなく3人抜きを果たし、賞品をもらって土俵を下りた。
「おう、おんず(男兄弟の末っ子)も強いのう」
吉五郎は近くの見物人に褒められ、胸を張っている。着てきた洋服を脱ぎ、シャツの袖はもうまくられている。ヤジの声も大きくなり焼酎は順調になくなっていた。
潔はみんなのところに戻ってくると、ポンと賞品をはなに渡した。
「潔、強いな」
「だってみんな、克あんちゃより全然弱いもん」
潔ははなの横に座り、隣にいる仲良しの喜充一家と一緒に土俵を眺めた。
取り組みは進み、初等科も最後の6年生になった。克義の登場だ。
「よしっ」
大きな声を上げ、回しをポンとたたき、土を踏みしめて土俵に上がった。足を上げてしばらくためて四股を踏む。相手をぎっと睨みつける。克義は立ち合い前から周囲を威圧していた。
順調に勝ち進んで4人目。相手は克義より10センチも大きい。立ち合いで押し込まれたが、腰を落とし土俵際を回り込んで頭をつけ、とうとう寄り切った。最後は堂々の上手投げで5人抜きだ。
「お前さんのとこはみんな強いな」
周りに言われて吉五郎はますます機嫌よく酒を飲んでいる。はなも2人を抱きながら笑顔で見物している。
そのうち土俵は、青年学校の若者たちの取り組みになった。
身体の大きな若い衆が立合いをする。回しを両者が掴んでうんうん押すが、腹が合うばかりで一向に勝負が決まらない。
「おう、相撲やれ相撲」
ヤジを飛ばす吉五郎の口調が厳しくなってきた。
はなの後ろで見ていたハレがちょっと顔をしかめた。
次の取り組みでも同じような流れになると、やおら吉五郎が立ち上がった。シャツのボタンに手がかかっている。
ハレはパッと立ち上がり、駆け足で土俵から離れた。
背中の方からわあっという歓声と笑い声、拍手が上がっている。
「トッチャ、もうやだ」
火照る顔を押さえながら、ハレは境内の隅の方に逃げた。
吉五郎は上は裸、下は白いフンドシだけになり、土俵に上がっていた。身長は1メートル50センチちょっと。骨格はがっちりしているが痩せており、白い肌に肋骨が浮き出ている。
「おら、来い。相撲はこうやって取るもんだ」
そう言いながら、手をパンと一度叩いた。何を、と若い衆が向かってくるが、回しを取るか取らないかのうちに軽々と投げ飛ばす。ふた回りも体格のいい男たちが全く歯が立たない。
「おまえのトッチャ、強いなあ」
喜充が潔に言った。
「うん。ノブあんちゃなんか窓から投げちゃうしな」
「でもあの格好はなあ」
「うん」
吉五郎は出てくる若い者を次々と投げ飛ばしている。
「酒なんて飲まなきゃいいのになあ」
潔はつぶやいた。
いくら吉五郎でも、15回も投げるとさすがに疲れてくる。最後は何人がかりかで土俵から引きずり下ろされた。
境内の隅で酔っぱらってくだを巻いているのを、上の兄たちがやってきてやっと連れて帰った。
はなはその後も周りにしきりに謝って回った。
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【読み方】老登山(ろうとさん)