大きな汽笛を3回鳴らした後、船はゆっくり動き出した。
1948年(昭和23年)8月29日、午後2時過ぎ。
ソビエト側が用意した貨物船「レニングラード号」は、国後島からの引き揚げ者を乗せ、島の南西・泊村のキナシリ沖を出発した。総勢何人なのかは分からない。が、そのうちの約250人は、島の東側を占める留夜別村の最後の引き揚げ者だった。
天気は晴れ。気温15度。波は穏やかだ。
甲板には数百人の島民がいる。
ほとんどの人は1万トン級のこの船の、材木を積むための大きな貨物室に押し込まれたが、ちょっと前まで乗船が行われていたため、居所を決められず甲板で大きな雑嚢を背負っている人がまだいた。島に別れを告げようと、貨物室からわざわざ上がってきた人もいた。
船は島を左手に見ながら進んで行く。
「あれ、根室とは逆じゃないか。克あんちゃ」
甲板の左舷側で島を眺めていた潔は驚いて声を上げた。
「まっすぐ根室に行くんじゃないよ。樺太に行ってから北海道に行くんだ。これから国後と択捉の間を通って北に向かうのさ」
隣にいた克義が教えてくれた。
「すぐに渡れるんじゃないのか」
「ああ。樺太じゃロスケの検査もあって、持ち物全部取られるかもしれないんだと」
「どうするの」
「トッチャとカッカが何とかするだろ。あんちゃは話もできるからな」
そう言うと克義は潔を置いて下りていってしまった。
船は北東方向に進んで行く。羅臼山が左手後方に過ぎると、ほとんど山のない平坦な陸地が続いた。進行方向左手奥から、少しずつ爺爺岳が大きくなってくる。
泊村に別れを告げ、留夜別村の沖合になってくると、下から村の人たちがドヤドヤと上がってきた。遠くに見える故郷と爺爺岳を眺め、銘々に別れを告げている。
少しするとハレが上がってきた。
「姉、どうしたの」
潔が聞く。
「もうすぐ礼文磯が見えるっていうから」
「トッチャたちは」
「いいって」
数百人の人が左舷側に立って島を眺めていた。
みんなハンカチやタオルを顔に当てている。
国後島一の高さを誇る爺爺岳は、山腹に軽く雲がかかっているだけできれいに見えた。
深いブルーの海から山が直接立ち上がり、「千島富士」とたたえられる美しい稜線が、鮮やかな青空に向かって美しいカーブを描いている。トレードマークになっている山頂の赤っぽい三角の小山も、今日は隠れることなく、くっきりと見えている。
下から伸義も上がってきた。2人の横に並ぶ。
海岸沿いの白い砂地の上に小さく家々が見える。乳呑路、ノツカ、チフンベツ、そして礼文磯…
「茶々山を拝めるのもこれが最後か」
周りの人たちがそんなことを言い合いながらじっと眺めている。当時、島民は爺爺岳を「茶々山」と呼んでいた。
「ソ連の馬鹿野郎、必ず帰って来て、今度はお前たちを追い出してやるからな」
勇ましく叫ぶ若者がいる。
「しかし日本は何をしてるんだ。もう3年もたつのに、やっぱり敗戦の混乱で何もできてないんだろうなあ」
年寄りがため息をついている。
「おーい」
日本人が誰もいないのに手を振る小さな子どももいる。
潔とハレ、伸義は並んで、じっと爺爺岳と礼文磯を眺めていた。
つい1カ月前まであそこに住んでいたのに。
あそこで生まれてずっと暮らしてきたのに。
何もかもが夢のように、消えていってしまう。
潔は大声で叫びたくなった。
「みんなでさよならしようよ」
近所の老婦人がみんなに呼びかけた。
さらば茶々山よ
また来るまでは
潔たちの隣に立っていた見知らぬ50歳ぐらいの夫婦が、突然口ずさみ始めた。
みんなが知っている「ラバウル小唄」の「ラバウル」を「茶々山」に替えただけのものだ。
しばし別れの涙がにじむ
歌は次第に、甲板に立っているみんなに広がっていった。
終いには、大人も子どもも肩を組んでの大合唱になった。
涙が流れてくるのも構わず、1番の歌詞を何度も繰り返す。
12歳の潔、14歳のハレ、そして18歳の伸義も、みんなと肩を組み、泣きながら歌った。
恋し懐かしあの島見れば
椰子の葉かげに十字星
北緯44度の国後には、もちろん椰子の木もなければ南十字星も見えないが、そんなことは誰も気にしない。
雄大な自然と暮らし、敗戦、3年間の 抑留、そして強制引揚命令。数々の思い出を乗せた船は、けたたましいエンジン音を上げながら、国後島と択捉島の間の国後水道に入っていった。
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【読み方】国後(くなしり)・泊村(とまりむら)・樺太(からふと)・択捉(えとろふ)・羅臼山(らうすやま)・爺爺岳(ちゃちゃだけ)・留夜別村(るやべつむら)・礼文磯(れぶんいそ)・乳呑路(ちのみのち)※読み方は当時の島民の読み方に従っています。
※留夜別村を出た最後の船の動き(日時や経路)についてはまだ確定できていません。が、ここでは「千島教育回想録」(1977年、千島教育回想録刊行会発行)の佐々木隼男さん「敗戦・進駐・引揚」の記録が最も信憑性が高いと判断してそれに従いました。この船が留夜別村の住民が引き揚げた最後の船であることはほぼ確実ですが、泊村の住民が引き揚げた最後の船がこれであるかはよく分かりません。情報があればお知らせ下さい。